宇宙航空研究開発機構(JAXA)とリコーが共同開発した宇宙空間で使用できる小型全天球カメラが、国際宇宙ステーション(ISS)での撮影を終え、2021年春に地球に戻ってきた。
同カメラは、リコーの360°カメラ「RICOH THETA(リコー・シータ)」を基に宇宙環境でも耐えられるように開発した「宇宙仕様THETA」だ。
ISSの「きぼう」日本実験棟に軌道上技術実証を行う目的で設置した小型光通信実験装置「SOLISS」(Small Optical Link for International Space Station)の2軸ジンバル機構の動作確認を主目的として、2019年に宇宙ステーション補給機「こうのとり」8号機で地球から飛び立った。
宇宙仕様THETAの基となったTHETAはリコーが2013年に販売を開始した、コンシューマ向けの360°カメラ。ボディに搭載した2つの超広角レンズによって、ワンショットで360°全方位の映像を撮影できる手軽さから、日本国内だけでなく、海外でも販売台数を伸ばしている人気製品だ。近年は不動産のオンライン内見や建設現場の情報共有などビジネスの現場でも広く活用されているという。
宇宙仕様THETAの共同開発のキーパーソンであるJAXAの澤田氏・神田氏・布施氏とリコーの傳田氏・吉田氏がオンラインにて会し、開発の経緯から現在そして今後の展開までを語り合った。
参加者プロフィール
澤田 弘崇(さわだ ひろたか)氏(以下JAXA 澤田氏)
JAXA 国際宇宙探査センター火星衛星探査機プロジェクトチーム
主任研究開発員
宇宙ロボットの研究開発を経て、JAXAの探査ミッションのエンジニアを担当。小惑星探査機「はやぶさ2」の開発に携わり、現在では火星衛星探査計画(MMX)のプロジェクトに携わっている。
神田 大樹(こうだ だいき)氏(以下JAXA 神田氏)
JAXA 第一宇宙技術部門技術試験衛星9号機プロジェクトチーム
研究開発員
小惑星探査機「はやぶさ2」のエンジンの研究や「宇宙探査イノベーションハブ」のプロジェクト研究員を経て、現在では技術試験衛星9号機(ETS-9)の電気推進系の開発を担当している。
布施 哲人(ふせ てつひと)氏(以下JAXA 布施氏)
JAXA 宇宙探査イノベーションハブ 主任研究開発員
「宇宙探査イノベーションハブ」にて制度設計などに携わる。 SOLISS以外でもTHETAを活用するプロジェクトを現在進めているという。
傳田 壮志(でんだ たけし)氏(以下リコー傳田氏)
リコー リコーフューチャーズ ビジネスユニット
Smart Vision事業センター副所長
360°画像を活用したサービスの事業化に携わっている。
吉田 彰宏(よしだ あきひろ)氏(以下リコー吉田氏)
リコー リコーフューチャーズ ビジネスユニット
Smart Vision事業センター360システム事業室
開発1グループリーダー
360°画像を活用したビジネス向けソリューション開発を担当している。
共同開発した宇宙仕様THETAが撮影に成功した宇宙の360°映像
--まずは、同取り組みを振り返り、今の心境をお聞かせください。
JAXA 神田氏:すばらしい画像が撮れてうれしく思っています。「こうのとり」8号機が帰還する際の連続写真はとても感動しました。「これはきた!」と思いましたね。 宇宙空間で稼働したカメラを再び手に取ることができたのも、今回のミッションの特徴だと思います。ただ、放射線の影響で制御機器の一部が故障し、宇宙仕様THETA自体の運用が制限され、画像や映像を撮りきれなかったのが心残りです。
JAXA 澤田氏:VRゴーグルで見ると、自分がISSにいるような体験ができ、感動して鳥肌が立ちました。2015年にTHETAを使いたいと思い立ってから宇宙に行くまでに4年もの歳月がかかりましたが、今は皆さまに感謝しています。打ち上げから1年半後、自分たちの作ったものが宇宙から手元に戻ってきたというのも、もうひとつの感動です。
リコー 傳田氏:JAXAのミッションとして、宇宙のVRコンテンツを撮影された経験はあるのですか?
JAXA 澤田氏:ありません。宇宙仕様THETAを打ち上げる1年ほど前に、確かロシアがゴーグルを付けるタイプのVR体験風コンテンツを作っています。全天球ではありませんが、カメラでいろいろな方向を撮影し、そのデータを組み合わせて「きぼう」日本実験棟の内部にいるような体験ができるコンテンツは以前からありました。今回のような全天球カメラで全周撮影というのはJAXA初です。
リコー 傳田氏:一緒に画像や動画を見たときに、JAXAの方々がすごく感動していたのを覚えています。
JAXA 澤田氏: ISSから地球を見ることができるのは宇宙飛行士だけなので、擬似的でもそれを体験できたのは感動です。
リコー 傳田氏:今回の画像はJAXAデジタルアーカイブス(JDA)で公開されていますが、これはパソコンではなくVRゴーグルで見て欲しいコンテンツですね。
JAXA 神田氏:実は私も個人的にこのコンテンツを見るためにVRゴーグルを買いました!
リコー 傳田氏:これまでTHETAで撮影した中で、地球を捉えた今回が一番大きい被写体だったようです。ぜひVRゴーグルを使ってこの迫力を体験していただきたいですね。
宇宙仕様THETA開発のきっかけ
--共同開発の開始にあたって、きっかけやJAXA内でのご検討などの経緯をお聞かせください。
JAXA 澤田氏:私は小惑星探査機「はやぶさ2」の開発に携わっていました。2014年の打ち上げから1年後、共同研究を通じて革新的な技術の開発を行い、得られた成果を宇宙利用のみならず地上で社会実装することを目的としたJAXAの組織「宇宙探査イノベーションハブ」(探査ハブ)での業務に携わる中で見つけたのがTHETAです。
ロボット関連の研究開発を担っていたので、宇宙で使用するカメラの開発には以前から関わりがありました。360°撮影できるカメラを宇宙で使えばすごい画像が撮れるはず。「これだ!」と見つけたときに思いました。そこで人づてでリコーの担当者の方を紹介して頂き、THETAを宇宙で使いたいとお願いしたところ、リコー側の最初の反応は「宇宙技術とは無縁なので難しいかもしれません」とのことでした。その後の交渉を経て、2018年から正式にSOLISS用の宇宙仕様THETAを共同開発することになりました。
リコー 傳田氏:リコーでは部署ごとに反応はさまざまでしたが、私のところでは将来的に何かにつながるだろう、JAXAと共同で仕事を進める機会はそう多くはない、という思いを持っていました。一抹の不安があったのは事実ですが、チャレンジすることに決めました。
JAXA 澤田氏:JAXAではそれまで360°のカメラを使ったことがなかったので、THETAなら画期的な画像・映像が撮れるだろうと期待していました。技術支援以外にも放射線試験などでも協力していただき、積極的に参加していただいてよかったと思っています。
リコー 吉田氏:民生用の製品を宇宙で利用することについて、大丈夫なのか難しいのか、どの程度の可能性があると考えていたのですか?
JAXA澤田氏:期待の方が大きかったですね。JAXAでは以前から民生の部品を使っていますし、「はやぶさ2」でも車載用のカメラを使って画期的なカメラを開発しました。実際に民生用のカメラや部品を使ってみると、ほとんどのものが宇宙で耐えられた。ただ、放射線に対してはやってみないと分からないところがありました。
リコー 吉田氏:THETAの場合も最初から「いける」と思っていたのですか?
JAXA 澤田氏:SOLISSはミッション期間が半年でしたので、多分いけるだろうと思っていました。
--開始後、THETAをSOLISSに搭載するにあたっての課題や、苦労された点についてお聞かせください。
JAXA 神田氏:トライ&エラーの方式に近く、リコー側から技術支援を受けながら臨機応変に対応できたので、宇宙開発としては短期間でできたと思っています。ただ、THETAを制御する装置の構築には苦労しました。カメラ自体はカスタマイズして搭載できましたが、制御装置は一から考えて作る必要があったからです。制御装置とは、THETAなどを操作・管理するため地上との間でコマンドなどを通信する機能を持った機器のことです。宇宙で使うための機能の選択、構築するためのハードウェアの選定、電源供給の工夫、といった点が特に難しかった。ISSへ搭載するための安全審査をクリアすることも苦労した点です。どのようなことが危険であると分類され、それに対し、どのように対処すべきか分からないことが多かったので。
リコー 吉田氏:放射線の影響を解析することに時間がかかりました。最終的にはファームウェアをバージョンアップさせて対応しました。リコーでは課題に対して各自の専門性の中で対応を考えますが、神田さんはいろいろな課題を知らない間に解決していった。すごい人だと感じています。
カメラの開発では現場で出た問題を解決しながら作り込んでいきます。ノウハウを蓄積しブラッシュアップして、次の機種ではそのような問題が起こらないようにしていきます。宇宙で使うものはそれができない。私が心配していたのはこの点です。いろいろシミュレーションしても何か抜けているのではないか、という不安が常にありました。
リコー 傳田氏:私はISSへ向けて打ち上がってよかったくらいに楽観的に見ていました。吉田は撮影した画像を見るまで「大丈夫か?」と言い続けていましたね。とにかく考えていた以上の撮影ができて大成功だったと思います。