名古屋大学(名大)は7月15日、物価水準の決定に関する新たな理論を提示し、戦中・敗戦直後と現代の日本経済について物価や金利の決定メカニズムを解明したと発表した。
同成果は、名大大学院 経済学研究科の齊藤誠教授らの研究チームによるもの。詳細は、「Strong Money Demand in Financing War and Peace:The Cases of Wartime and Contemporary Japan」と題した書籍してSpringer Nature Singapore社から出版された。
日本は1980年代末期から1990年代初頭のバブル経済の崩壊、2000年代初頭のITバブル崩壊、その後のリーマンショック、そして現在は新型コロナウイルスのパンデミックという未曾有の状況下で経済の混乱が続いている。
しかし、戦後に経済が安定して以降、1時間で物価が上昇するような海外で発生しているハイパーインフレなどは経験しておらず、不況が20年も30年も続いているようにいわれるが、日本経済は安定しているといえる。人は喜ばしいニュースよりも、不幸だったりショッキングだったりするニュースに飛びつく傾向が強いといわれており、マスコミが大げさに煽っているだけとも考えられなくはない。
そこで研究チームは今回、特に現在の日本の財政金融状況について、以下の3点の疑問を取り上げる形で研究を実施。
- なぜ、大量の貨幣が供給されているにもかかわらず、物価水準が安定しているのか?
- なぜ、大量の国債が発行されているにもかかわらず、長期金利が低位で安定しているのか?
- 現在の物価安定と低位な長期金利は将来も持続するのか?
そして、これらについて理論的、実証的、歴史的な考察から明らかにし、以下のようにポイントをまとめたとする。
貨幣経済論には、「貨幣数量説」と「物価水準の財政理論」(FTPL)という2つの代表的な物価理論がある。貨幣数量説は、物価水準が貨幣要因で決定されるとする理論で、具体的には、物価水準は、貨幣供給量の増加と共に上昇すると想定されている。
一方のFTPL(the Fiscal Theory of the Price Level)は、物価水準が財政要因で決定されるとする理論だ。具体的には、物価水準は、将来の財政余剰(財政収入が財政支出を上回る度合い)が減少すると共に上昇すると想定されている。
しかし、どちらの理論も現在の日本経済の状況をうまく説明できない。大量の貨幣供給にもかかわらず物価が上昇せずに安定している状況は貨幣数量説と矛盾し、大量の国債発行にもかかわらず物価が安定する状況はFTPLと矛盾しているためである。
そこで登場するのが、貨幣数量説とFTPLを統合した新しい物価理論だという。この新しい物価理論では、長期金利がゼロ水準まで低下すると、旺盛な貨幣需要が大量に発行された貨幣と共に、将来の返済能力を超えて発行された長期国債も吸収し、物価水準が依然として安定するという。
また、大量の貨幣供給と国債発行でも、長期金利がゼロ水準に留まる下で物価が安定する均衡は継続しやすい性質を有するとする。しかし何らかのきっかけで、金利がゼロ水準から離陸するや否や、物価が一挙に数倍に高騰する。その際に財政規律を回復することを速やかに宣言しないと、一度きりの物価高騰が「ハイパーインフレ」に転じてしまう危険性があるという。
ハイパーインフレとして近年、有名になったのが、今から10年と少し前、ジンバブエで起きた事象で、「100兆ジンバブエドル」という紙幣も登場して話題となった。
そしてゼロ金利の物価安定下では、財政規律を緩めることができるが、いずれ国民は、物価高騰と厳しい財政規律によって、それまでに大量に発行された国債の返済に迫られることになる、としている。
今回の研究では、19世紀末以降の日本の貨幣需要について、以下の時期について比較検討が行われた。
- 年代1:1890年~1936年と1950年~1994年(貨幣需要が安定していた時期)
- 年代2:1937年~1945年(貨幣需要が旺盛になった時期)
- 年代3:1945年~1949年(貨幣需要が急速に縮小した時期)
- 年代4:1995年以降(貨幣需要が再び旺盛になってくる時期)
この中で、特に年代2の太平洋戦争前から戦争終結までを含む期間では、統制経済化で地下経済に流れた資金の受け手となった闇市場のディーラーが、所得隠匿目的で匿名性のある日本銀行券(紙幣)を大量に保有し、それが旺盛な貨幣需要につながったという。
しかし、敗戦直後の年代3の時期には、闇市場のディーラーの資金運用先が、紙幣から土地や物資などの実物資産にシフトしたことから、貨幣需要が急速に縮小してしまった。その結果、年代2の時期は貨幣供給が拡大したにもかかわらず、物価が相対的に安定していた一方で、年代3の時期は貨幣供給拡大が鈍化したにもかかわらず、物価が高騰したと考えられるという。
ただし、年代3の時期の物価高騰も1949年には収まり、貨幣需要がゼロに向かって退化するハイパーインフレに陥らなかったのは、日本政府が敗戦直後から税制改革を断行し、財政規律を回復したからだという。
そして年代4の時期(1995年以降)は金利水準がゼロ近傍まで低下し、貨幣保有に機会費用がかからなくなったことから、貨幣需要が再び旺盛になった。さらには、長短金利がゼロ水準に近づくにつれて、「そもそも金利がゼロの貨幣」と、「かつては金利が正であった国債」が等価な資産となった。
その結果、旺盛な貨幣需要は、大量に供給された貨幣だけでなく、大量に発行された国債も吸収するようになったとする。また、金利がゼロである限りは、国債の返済の先延ばしを続けることが可能だという。
しかし、年代4の時期に観察された旺盛な貨幣需要は、大量発行の国債を吸収し続け、国債返済を永遠に先延ばしにすることができるのか? という疑問が湧く。今回の研究では、敗戦直後の年代3の時期に貨幣需要が急速に縮小し、物価が高騰した経験を踏まえて、現在の旺盛な貨幣需要の将来を考察したとする。
そして今回は4つのシナリオが想定された。シナリオ1が一般市民にとっては一番苦労がなく、シナリオ2、シナリオ3と厳しくなっていき、シナリオ4が政府が対応を誤った展開でハイパーインフレに突入するという最悪の事態を示している。
- シナリオ1:今後も10年単位の期間でゼロ金利が継続し、旺盛な貨幣需要が大量発行される国債を吸収し続ける。
- シナリオ2:ゼロ金利が継続している間に、政府や日銀を併せた統合政府は、国債返済や紙幣改修を実施して、統合政府債務を圧縮する。
- シナリオ3:何らかの理由で金利水準がゼロから離陸し、貨幣需要が急激に縮小するや否や、金利水準が数%までジャンプし、物価水準が一挙に数倍に高騰する。しかし、政府場財政規律を回復することで、物価高騰がハイパーインフレに転じることは回避される。
- シナリオ4:シナリオ3の下で、政府が財政規律の回復に失敗すると、金利水準も、物価水準も急騰し続けるハイパーインフレに陥ってしまう。
今回の研究では、首都直下地震(2020年時点で今後30年以内の発生確率は70%程度と、地震調査研究推進本部地震調査委員会が発表している)からの復興政策のような大規模政策対応で数年分の民間貯蓄が一挙に消費されるような事態では、シナリオ3やシナリオ4の可能性が高いことを示しているとする。
そうした事態が顕在化した場合に、将来にわたって財政改革にコミットし財政規律を回復することは、ハイパーインフレのような最悪の事態を回避できる点で、極めて重要な政策対応といえるとしている。
1995年以降の極めて攻撃的な財政金融政策については、長期的にも持続可能な政策パッケージとして積極的に評価する考え方と、将来の次点で極めて深刻な弊害(物価や金利の高騰、国債や円通貨の暴落、財政破綻など)を深刻に懸念する考え方が鋭く対立してきた。しかしどちらの考え方も、理論的、実証的、歴史的に厳密な考察を欠いてきたとする。
今回の研究は、厳密な経済学的考察に基づいて2つの対立する考え方を整理し、(i)いずれ後者が顕在化する可能性が高いこと、(ii)その場合に、現在、完全に弛緩してしまった財政規律を速やかに回復させることが、極めて重要な政策対応であることを指摘しているとしている。