米国航空宇宙局(NASA)の元宇宙飛行士、マイケル・コリンズ氏が、2021年4月28日(現地時間)に亡くなった。90歳だった。
コリンズ氏は「ジェミニ10」や「アポロ11」に搭乗し宇宙を飛行。アポロ11では、月を回る司令船にとどまり支援に従事し、アームストロング氏とオルドリン氏のように月に降り立つことはできなかった。そのため「歴史上最も孤独な男」とも呼ばれた。
はたして彼の生涯とはどのようなものだったのか、そして月に降り立てなかったことをどう思っていたのだろうか。
マイケル・コリンズ氏の生涯
マイケル・コリンズ氏は、1930年10月31日にイタリアのローマで生まれた。父親が陸軍の軍人で、当時ローマ駐在の武官だったためである。
ワシントンD.C.のセント・オールバンズ・スクールを卒業したあと、1952年にウェストポイントの米国陸軍士官学校を卒業した。
その後、コリンズ氏は空軍に入り、1959年から1963年まで、カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地でテスト・パイロットとして活躍。飛行時間は4200時間を超えるベテランのパイロットだった。
1960年には、NASAの第2期宇宙飛行士の募集に応募したが、落選。そこで大学院で宇宙工学の基礎を学び、さらにパイロットとしての実績も重ねたうえで、1963年10月、第3期の募集で選ばれた。その後、宇宙飛行士として訓練を重ねつつ、宇宙服の開発にも参加している。
そして1966年7月、「ジェミニ10」ミッションのパイロットとして、ジェミニ宇宙船に乗り3日間の宇宙飛行に飛び立った。
ジョン・ヤング氏が指揮したこのミッションでは、「アジーナ」標的衛星とのドッキング試験を2回実施。さらに2回目のドッキング後、コリンズ氏が船外活動で微小隕石の検出装置を回収に成功。コリンズ氏は米国で3人目の船外活動を行った人物となった。
その後、アポロ宇宙船を地球軌道上で試験するミッションの乗組員に選ばれるものの、頚椎椎間板ヘルニアを患い、治療のために離脱することになった。同ミッションはのちに計画が変更され、月を周回するミッションとなり、そして「アポロ8」と命名。1968年12月に行われた同ミッションでは、地上でCAPCOMを務め、ヒューストンのミッション管制センターと、アポロ8のクルーとの情報伝達に従事した。
その後、アポロ11ミッションの乗組員として任命。司令船「コロンビア」のパイロットを務めることになった。そして1969年7月16日、船長のニール・アームストロング氏、月着陸船パイロットのバズ・オルドリン氏とともに、史上初となる有人月着陸に向けて飛び立った。
7月21日、月着陸船「イーグル」は月面への着陸に成功。アームストロング氏とオルドリン氏は月面にその足跡を刻んだ。しかしコリンズ氏は、月にいる2人を支援するため司令船に残り、月周回軌道で待機していた。すなわち、月に降り立つことはできなかったのである。
アームストロング氏とオルドリン氏が月を歩いている間、世間の注目は彼らのみに集まり、その上空約100kmを飛ぶコリンズ氏の存在はほとんど忘れられていた。そのため彼は「歴史上最も孤独な男(the loneliest man in history)」、「最初の人間アダム以来、これほどの孤独を味わった者はいない」とも呼ばれた。
このアポロ11での飛行が、彼にとって最後の宇宙飛行となった。彼はもともと、アポロ11の打ち上げ前から、これを最後のミッションと決めていたという。
彼の宇宙滞在時間は、合計11日と2時間4分だった。
その後、ニューヨークとシカゴでテロップのパレードに参加。議会で演説したり、38日間で22か国を周遊したりしたあと、1970年1月にNASAを退職。国務次官補として広報活動に従事した。しかし、彼曰く「楽しくなかった」として1年で退職している。
1971年にはスミソニアン博物館に入り、当時建設が計画されていた国立航空宇宙博物館の初代館長に就任。そして予算と展示物を集め、1976年にはスケジュールどおり、そして予算内に同館を完成させるという功績を残した。館内には、アポロ11で自身が乗り、そして孤独な時間を過ごした司令船コロンビアや、宇宙で彼が使った身の回りの品々も展示された。
1980年にはLTVエアロスペース&ディフェンスの副社長に就任。1985年に独立し、宇宙に関する執筆や講演活動を続け、数冊の本も出版した。
しかし、近年はがんを患い、闘病を続けていたという。そして、2021年4月28日(現地時間)に息を引き取った。90歳だった。
なお、アームストロング氏は2012年8月25日に亡くなっており、アポロ11の乗組員で存命なのはオルドリン氏だけとなった。