理化学研究所(理研)は8月21日、複数の揮発性分子の混合物である匂いを、「エサの匂い」や「天敵の匂い」など、単一の匂いとして認識する「匂いオブジェクト」の脳内表現を生成する情報処理の仕組みを解明したと発表した。
同成果は、同研究所脳神経科学研究センター知覚神経回路機構研究チームの遠藤啓太 研究員、高木(槌本)佳子 研究員、風間北斗チームリーダーらによるもの。詳細は、科学雑誌「Neuron」(10月28日号)の掲載に先立ち、オンライン版に掲載された。
昆虫を含め多くの動物は、自然界の多種多様な匂い分子を検出して識別することで、その匂い分子を発しているエサや天敵、配偶相手を認識し、その情報に従って個体の生存や生殖行動など種の維持に必要な行動を起こす。多くの匂いは、複数の揮発性分子の混合物であるため、生物が匂いの源を認識するためには、それぞれの匂いを構成する分子の1つひとつを認識するのではなく、混合物全体を「エサの匂い」、「天敵の匂い」といった単一の「匂いオブジェクト」として認識する必要がある。
また、厳密には異なる匂いの分子であっても、化学的性質が似た匂いのグループは、例えば「柑橘類の匂い」といった匂いオブジェクトとして認識することで、同じ生物学的意味を持つ匂い同士における「汎化(はんか)」が容易となり、生存に有利に働くという。汎化とは、ある特定の刺激と結びついた反応が、類似した別の刺激に対しても生ずる現象のことをいう。
ヒトも揮発性分子の混合物を匂いオブジェクトとして認識することが実験などから示唆されており、実際にヒトやマウスの脳の嗅覚二次中枢において、匂いオブジェクトに対応するような神経活動も観察されている。ただし、この脳内表現がどのような演算とメカニズムによって生成されるのかは、これまでのところ未解明だった。
この演算を理解するためには、まず入力情報と出力情報を比較解析することが必要だ。それには、脳の複数の領域において、匂いの情報処理に関わる神経細胞の活動を網羅的に記録しないとならないという。また、メカニズムを理解するために必要なのが、入力細胞と出力細胞をつなぐシナプスの性質や配線パターンを確認することだ。
課題は、演算もメカニズムもどちらの調査も技術的に困難を伴うことだ。そこで、研究チームは哺乳類よりもはるかに小数の神経細胞しか持たず、それでも哺乳類と類似した神経回路構造を持つキイロショウジョウバエ(成虫)の嗅覚神経系に着目。匂いオブジェクトの脳内表現を生み出す仕組みの解明に挑んだ。
今回の研究では、ハエの脳内の嗅覚一次中枢である「触角葉」からの入力を基にして、二次中枢のひとつで嗅覚学習・記憶に関与する「キノコ体」で行われる情報処理を解明することが目的とされた。脳の各領域から網羅的に神経活動を計測する手法として今回、カルシウムイオンの濃度に応じて明るさが変化する蛍光分子を用いることで細胞内のカルシウムイオン濃度を計測する「カルシウムイメージング法」による技術が新たに確立された。
そして、触角葉とキノコ体のほぼすべての神経細胞から、多種多様な匂いに対する応答が記録され、それぞれの脳の領域における細胞集団レベルでの匂い応答の「神経応答空間」での比較解析が実施された。なお神経応答空間とは、個々の神経細胞の活動を軸とした多次元空間を表す。特定の刺激情報は、その刺激に対する個々の神経活動に基づいて、この多次元空間の一点に位置付けることができるのである。
すると、キノコ体での神経応答空間の次元が高いことが確認され、個々の匂いがより分離されやすい形で表現されていることが判明した。さらに、匂いの混合物や化学的性質が似た匂いグループも、それぞれクラスターとして表現されていることも確かめられたのである。つまり、匂いオブジェクトの脳内表現が、キノコ体で生成されているということが明らかとなった。
続いて、匂いを汎化する能力について触角葉とキノコ体とで比較が行われた。その結果、匂い分子の混合比によらず、混合物を汎化する能力も、また新規の匂いを適切なグループに汎化する能力も、キノコ体の方が優れていることが確認された。
匂いに選択的に応答する神経細胞が存在していることが示唆されたことから、さらに研究チームは、神経細胞の匂い応答の選択性について、相互情報量を用いた定量化を実施。すると、実際に混合物や多種多様な匂いグループに対して高い選択性を示す細胞が、触角葉よりもキノコ体に多く存在することが判明したのである。
次に、その選択性の高い細胞がキノコ体で生まれるメカニズムを検証するため、過去に解析された触角葉とキノコ体神経細胞間のシナプスの性質や既知の神経配線パターンのデータを基に、触角葉の神経活動からキノコ体の神経活動を説明する数理モデルの作成が行われた。これにより、触角葉とキノコ体をつなぐ拡散・収束性の神経配線を通して、触角葉に表現された匂い情報がランダムに入力されて足し合わされることで、キノコ体神経細胞の高い選択的応答性が生まれることが判明したのである。
しかも、触角葉とキノコ体の間でランダムな情報の選択と統合が行われているにも関わらず、キノコ体における多種多様な匂いの表現が、個体間で保たれていることも発見された。つまり、個体が異なっても多種多様な匂いは、それぞれの脳内で同様に表現されるということが示されたのである。
嗅覚回路の機能や基本的な配線図はハエからヒトまで共通であることから、研究チームは今回の結果に対し、自然界の多種多様な匂いをそれぞれ固有の匂いオブジェクトとして知覚するための普遍的な脳内情報処理の理解につなげることが期待できるとしている。
さらに、今後の脳のさまざまな領域における情報処理の研究において、今回開発されたカルシウムイメージング法を用いた新技術があれば、1細胞および細胞集団の双方のレベルで進展することが期待できるとも述べている。