米国立標準技術研究所(NIST)は、分子イオンの量子状態を制御する実験に成功したと発表した。イオントラップとレーザー冷却を用いた原子イオンの量子状態制御はこれまでにも行われてきたが、これらの技術を用いて分子レベルでの制御を実現したのは今回がはじめてという。分子分光による精密測定や、量子コンピューティングに必要な量子情報処理など、幅広い応用が期待される。研究論文は、科学誌「Nature」に掲載された。
イオントラップやレーザー冷却は、これまで量子テレポーテーション実験や超精密な原子時計などに利用されてきた技術であり、イオン化した原子を量子的に制御できるようになっている。一方、分子の場合は、多くの電子エネルギー準位をもち、回転運動をするなど原子と比べて構造が複雑であるため、同技術を適用することが難しかった。
今回の研究では、以下のような実験が行われた。まず、室温条件の高真空チャンバ内でカルシウム原子イオン2個をトラップし、数μmの距離に近づける。ここで真空チャンバ内に水素ガスを流し、片方のカルシウムイオンと水素を反応させて、水素化カルシウムイオン(CaH+)を生成する。
このようにして作ったカルシウム原子イオンと水素化カルシウムイオンのペアは、物理的な近さとプラス電荷同士の反発作用によって、ばねでつながれた二つの振り子のような動きをする。ここで原子イオンおよび分子イオンに対してレーザー冷却処理をかける。
レーザー冷却された原子イオンおよび分子イオンは、絶対零度に近い最低エネルギー状態に落ち込み、振動運動がほぼ停止する。ただし、水素化カルシウム分子イオンのランダムな回転運動だけは、この状態でもまだ持続している。ここで、特定の周波数でのパルスレーザー光を分子イオンに対して照射する。
パルスレーザーの周波数は、分子回転にある特定の変化を起こすよう狙ったものであり、狙ったとおりの変化が起きた場合にはエネルギーの一部が原子・分子イオンのペアに戻り、停止していた振動運動が再開するようになっている。狙った変化が起こらなかった場合には、振動運動はほぼ止まったままの状態が続く。
分子回転に狙ったとおりの変化が起きたかどうかを知るためには、原子イオンに対してパルスレーザー光を照射する。分子回転の変化を引き金とする振動運動が起きている場合にだけ、パルスレーザー照射を受けた原子イオンの内部状態が変化し、散乱光が発生する。この散乱光を検出することによって、分子イオンの回転運動が実際に狙いどおり制御されたことが確認できる。
分子イオンの回転運動を直接検出せずに、近接する原子イオンからの散乱光の情報という間接的手段を用いるのは、パルスレーザーを直接当てることで分子イオンの量子状態が変わってしまうことを避けるためである。粒子の量子情報を近接する他の粒子を介して間接的に得るという手法は、NISTが以前に作製したアルミニウム原子時計などで開発された技術であるという。
今回開発された技術は、水素化カルシウムイオンだけでなく、さまざまな種類のより大きな分子にも適用できるという。分子イオンを利用することによって、原子イオンよりも多様な量子情報の保存・変換が可能になるため、量子コンピュータなどへの幅広い応用が考えられる。
また、基礎研究の分野では、微細構造定数など自然定数が時間の経過によって変化するかどうかという物理学上の問題を解く上で、同技術が利用できるのではないかと期待されている。