2015年3月、線虫を用いて尿から安価・高精度にがんを検出する技術を開発したという研究成果が九州大学から発表された。「n-nose」と呼ばれるこの技術は、線虫ががん患者特有の分泌物の匂いを検知し、がん患者の尿に対して誘引行動を示す現象を利用し、1滴の尿から早期がんの有無を識別できるという驚くべきもので、各種メディアがこぞって取り上げたのは記憶に新しい。
同研究に関する論文の筆頭著者、九州大学大学院理学研究院生物科学部門の助教 広津崇亮氏は2015年末、この研究成果をもとに九州大学の学生らとともに大学発ベンチャー「SmartCelegans(スマートエレガンス)」を設立した。n-noseの実用化が同社設立の目的だが、広津氏はもともと「線虫の嗅覚」を専門とする基礎科学分野の研究者である。実用化については民間企業に託すという手段もあったはずだ。広津氏はなぜ、基礎科学の研究者という立場にありながらも、自ら会社を立ち上げることにしたのだろうか。
博士課程のセカンドテーマだった「線虫の嗅覚」の研究が『Nature』に掲載
広津氏は大学院生時代、分子生物学の研究室で線虫の交尾行動に関する研究を行っていた。線虫には、雄と雌雄同体の2種類の性があり、雌雄同体は個体内で自家受精することにより子孫を残すが、雄は雌雄同体と交尾することにより子孫を残すことが知られている。交尾行動というと、嗅覚の研究とは少し毛色が異なるように思えるが、「修士課程修了後に一旦就職したのですが、線虫の交尾行動の研究を再開するために、博士課程の学生として大学へ戻ることにしました。その際、面白そうなテーマがあるからセカンドテーマとして研究してみたらどうか、と指導教官に提案されたのが線虫の嗅覚に関するものでした。当時の研究で扱っていた分子が、たまたま嗅覚でも働いていたんです」と、広津氏は嗅覚に着目することとなった当時を振り返る。
しかし、セカンドテーマとして進めていたはずの博士課程時の研究が、有名科学誌『Nature』に掲載されるほどの大きな成果となった。"嗅覚は、おもしろい――。" これを期に、広津氏は本腰を入れて線虫の嗅覚の研究を行っていくことを決意する。
n-noseの着想を得たのは、がん患者に特有の匂いを嗅ぎ分ける「がん探知犬」の研究を行っていた佐賀県の医師 園田英人氏から「イヌだけではなく、ほかの生物でもがん検知ができるのでは」という相談を受けたことがきっかけだったという。
「線虫はイヌと比べて、同じくらいかそれより優れた嗅覚を持っていることは知っていたので、もしかすると線虫でも実現できるのではと思いました。また、私たちの研究室では、匂いに対する線虫の誘引行動・忌避行動の解析を世界で一番やっている自信があったので、もし線虫の嗅覚を使ったがん診断ができる人がいるとするならば、我々しかいないだろう、と」(広津氏)
この予想は見事に的中。広津氏は、「『Nature』に掲載された博士課程時の研究は、長年掛けて一生懸命やったというよりは、"すごい"結果が早いタイミングでいくつも出てきました。この"すごい"成果が出るときの流れはよく似ていて、今回のがんの研究も、同じように早い段階で良いデータが得られました。『Nature』に掲載されたときと同じ感覚を久しぶりに味わったような気がします」と説明しており、n-noseに繋がる結果はとんとん拍子で得られたことがわかる。
こうして線虫によるがん診断の技術は一躍話題となるが、がんの種類を特定する手法については現在も研究を進めているところだ。がんはその種類によって匂いが違うといわれているが、もしそうであるならば、匂いを受け取る線虫の受容体もがん種によってそれぞれ異なっているはず。あるがんの匂いに特異的に反応する受容体を同定することができれば、その受容体が良く働く線虫を作ることによってがんを判別することが可能となる。
広津氏はもともと、がんの研究とは別に、匂いと受容体の対応関係を網羅的に解析する研究を行っており、2014年4月に論文を発表している。この結果を利用すれば、がん特有の匂いについてもその受容体を同定することが可能だ。匂いと受容体の対応関係の研究は、がんの研究に生かそうと考えて行っていたわけではなく、今回たまたま成果が上手く結びついた形となる。「前者は基礎研究で、後者の研究はどちらかというと応用寄り。基礎研究をずっとやっておくことが大切だと、改めて思いましたね」と、広津氏は基礎研究の重要性を語っている。
研究者自らがベンチャーを立ち上げた理由とは
n-noseに関する論文が米科学誌『PLOS ONE』に掲載された2015年3月当時は、「実用化は誰かがやるんだろうと軽く考えていました」という広津氏。実際に、共同研究をしたいという民間企業からの申し入れは多くあった。しかし、"安い価格で、なるべく多くの人が受けられるような検査に"という思いを同じくする企業がある一方、利益最優先で考えている企業もあることに気づく。――企業にすべて任せてしまうのは確かに楽だが、その結果、何十万円という高価な検査となってしまうかもしれない。世の中の役に立たないものになってしまうかもしれない。私の思いを実現するには、ベンチャーを作って、そこで意思決定をしなければ――こう考えた広津氏は、論文発表の数カ月後に、ベンチャー立ち上げを決意。スマートエレガンスの取締役に就任した。
同社は現在、広津氏を含めた4名のメンバーで活動している。代表を務めるのは、予防医学が専門の医師 田村拓也氏だ。田村氏はもともと医師の免許を持ちながらも、九州大学に大学院生として通っていた。広津氏によると、「九州大学への進学が決まった際に、我々の研究成果の発表をみて、『絶対にこれがやりたい』と言い続けていたらしい」。実際に田村氏と話してみると、同じ理念を持っていることがわかった。また、ベンチャー設立に関する知識を勉強してきたということを知り、広津氏は田村氏に社長を任せることにしたという。「大学で教員として学生に接するなかで、守りに入って冒険をしない若者が増えていると感じていましたが、こういう若い人たちもいるんだと驚きました」(広津氏)
実用化に向けた研究や実務を行っていくことが、同社の使命だ。線虫によるがん診断は、今のところ研究室レベルでは実現できているが、臨床研究が開始となれば、今以上に大量の検体を取り扱うことになる。また、日本全国の人々が検査を受けられるようにするということは、何千万の検体を取り扱うということ。研究室レベルの小さな規模でやっていては追いつかない。
「世の中の必要としている人たち全員が、がん診断を受けることができるように、"安くて簡単"という形で世の中にこの技術を広めていきたい。この考えに賛同いただける企業と一緒に共同研究を進めていくことで、一刻も早く実用化するというのが大事です」と、広津氏は民間企業とも連携しながら2019年の実用化を目指している。
もともとは、基礎科学分野の研究者である広津氏。すばらしい成果をあげて良い論文を書くことが夢だったという。「理学部で基礎研究を行っているときには、世の中の役に立つかどうかということはあまり考えていませんでした。しかし幸いにも、結果的に社会の役に立つ技術を作ることができました」(広津氏)
研究者の好奇心や探究心がベースとなって進められる基礎研究は、「それが何の役に立つのか」という疑問や批判の対象になることも少なくない。しかし広津氏は、長年の基礎研究において得られた知識や経験を、今まさに世の中の役に立つものへと還元しているところだ。基礎研究は私たちの生活にイノベーションを起こすための礎となり得る、と気づかせてくれる事例のひとつがn-noseであるといえよう。