科学技術振興機構(JST)と富山県立大学は2月7日、アミン化合物「(R)-α-メチルベンジルアミン(α-MBA)」に作用する自然界には存在しない新しい「アミン酸化酵素」を開発し、さらにその酵素を用いてS型のα-MBAを高収率、高純度で生産する方法の開発に成功したと共同で発表した。
成果は、富山県立大の浅野泰久 教授、同・安川和志研究員らの研究チームによるもの。研究はJST課題達成型基礎研究の一環として行われたもので、詳細な内容は独科学誌「Angewandte Chemie International Edition」オンライン速報版に近日中に掲載される予定だ。
「鏡像異性体(光学異性体)」は、平面的にはまったく同じ構造でありながら、立体的には鏡に映したように対象の構造を持つ有機化合物のことをいう(画像1)。例えると手のようなもので、右手と左手は5本の指があって、手のひらがあってという具合に、一見、同じ形をしているように見える。しかし、手のひらを上にして両手を重ねてみても、同じ方向ではどんなに回転させても、同じ指が同じ位置に重なることはなく、鏡に映った鏡像のような関係になっている。
同様に、構成する元素や官能基はまったく同じでも、立体的に見ると鏡に映ったように対象の関係で、同じ方向に重ね合わせることができない化合物を鏡像異性体というのである。平面上の構造は、まったく同じであるため、物理化学的な性質は、「旋光度」という分光学的な性質を除きまったく同一だ。2つの鏡像異性体をそれぞれ「D」と「L」もしくは「S」と「R」で表記するが、DL標記とSR標記では、定義が異なる。
鏡像異性体は立体的に左右が異なるというだけで一見差がなさそうだが、それぞれは働きがまったく異なる場合も多い。生物の体内では、おおむね一方の鏡像異性体のみが存在しているとされ、このため、両方の鏡像異性体が混ざったものを医薬品などとして使用した場合、妊婦が催眠鎮静薬「サリドマイド」を使用した結果、多くの奇形児が発生する日本を含む世界的な被害が出た「サリドマイド事件」のように、重篤な副作用の原因となることがある。
従って、医薬品などの開発では鏡像異性体の内、目的にあったものだけを生産することが非常に重要だ。一般的な有機合成化学的手法では、一方の鏡像体だけを合成することができる「不斉触媒」を用いる方法と、2つの鏡像異性体を分離する方法がある。しかし不斉触媒は一般に高価なことが問題だ。また分離する方法では、理論的に2つの鏡像異性体が頭領存在している状態である「ラセミ混合物(ラセミ体)」の半分しか純粋な鏡像異性体が得られずに収率が低いといった問題があった。
一方、生物の体内で化学反応を触媒する酵素の多くは、一方の鏡像異性体のみに作用することが可能だ。この性質を利用することで、安価に効率よく有用な鏡像異性体を生産する方法が知られている。
今回の実験で用いたα-MBAは、エチルベンゼンのα位(ベンゼン環に直接結合している炭素原子)にアミノ基が置換しており、鏡像異性体が存在することが特徴だ。医薬品などの原料や「光学分割剤」として有用な物質であることから、鏡像異性体の選択的な生産技術の開発は産業的にも重要だ。光学分割とは、ラセミ体をそれぞれの鏡像異性体に分離する操作のことをいう。光学分割には方法がいくつかあるが、α-MBAのような鏡像異性体を持つアミン化合物でSもしくはR型のみを含むものを光学分割剤でして使用し、ラセミ体の酸を塩に誘導して分別結晶する方法が知られている。
なお、アミン化合物とは炭化水素にアミノ基が置換した化合物の総称のことをいう。α-MBAは、エチルベンゼンのα位(ベンゼン環に直接結合している炭素原子)にアミノ基が置換しており、鏡像異性体が存在するのが特徴だ。
すでにある種の酵素を用いて、ラセミ体から一方の鏡像異性体のみをほかの物質へ変換する光学分割が報告されているが、この方法では理論上50%しか目的とする鏡像異性体を得ることができなかった。また、一方の鏡像異性体S型のα-MBAに選択的に作用する酸化酵素は報告されていたが、R型のα-MBAに選択的に作用する酵素は報告されていなかったのである。
そこで研究チームは今回、ラセミ体のα-MBAから100%S型のα-MBAを作る方法の開発を目指し、ブタ腎臓由来のD-アミノ酸酸化酵素から「タンパク質工学的手法」を用いて自然界には存在しないR型のα-MBAに選択的に作用する酸化酵素を開発した(画像2)。
タンパク質工学的手法とは、組み換えDNA技術、遺伝子の化学合成技術などを用いてタンパク質の性質を異なるものに改変し、新しい性質のタンパク質を作成する学術領域のことをいう。また改変する際には、アミノ酸配列のほか、立体構造(タンパク質の結晶構造)や計算機化学などの情報と合わせてタンパク質を設計することもある。
この酵素をラセミ混合物のα-MBAに作用させると、R型のみが「アセトフェノン」へと変換されるため、理論上50%の収率でS型のα-MBAを得ることが可能だという。さらに、低分子の還元剤と併用することにより、S型のα-MBAのみが100%の収率で蓄積されるデラセミ化法の開発にも成功したのである(画像3)。
このデラセミ化法では、R型のα-MBAが酵素により酸化される反応の途中で、低分子還元剤によりα-MBAに強制的に戻される。この時、反応途中で戻されたα-MBAは、S型とR型が同じ確率で生じるので酵素により酸化されたR型のα-MBAがS型とR型が同じ割合でα-MBAに戻されることになる。
反応により生じるα-MBAの内のR型は、再度酵素反応で使用されるため、このサイクルが繰り返されることで酵素が作用しないS型の比率が上昇し、最終的に副反応や精製工程の損失により収率は、65%だったが純度100%のS型のα-MBAを得ることができたという。このように、今回開発されたデラセミ化法により、従来の光学分割的手法と比べて倍の収率でS型のα-MBAを生産できるというわけだ。
α-MBAは、光学分割剤や医薬品原料として使用される物質であり、鏡像異性体の選択的生産の高効率化、低コスト化は産業上有用である。また、今回開発された酵素は、広い「基質特異性」を持っており、さらに改良することで、例えばアルツハイマー型認知症治療剤「リバスチグミン」や過敏性膀胱治療薬「ソリフェナシン」など、鏡像異性体を持つさまざまなアミン化合物の生産に応用できる可能性があるという。なお、ある酵素反応が特定の基質構造を識別し、その基質のみ化学反応が起こることを基質特異的であるといい、このような酵素の性質を基質特異性という。
今回の研究で開発されたデラセミ化法は、光学純度の高い製品の生産法としても利用可能だ。さらに、今回の研究で開発されたアミン酸化酵素は、デラセミ化以外の反応にも利用可能と考えられ、新たな有用物質生産用の酵素など産業利用も期待されるとしている。