東京大学(東大)は、トイレタリー製品や香粧品に広く用いられる魅惑的な香気をもち、動物種を越えてフェロモン様の生理作用を持つ「ムスク系香料」の代表的な匂い物質である「ムスコン」が、一般的な匂いと比較すると極めて少数の嗅覚受容体で受容されること、また、ムスコンの匂い情報が、嗅覚の一次中枢である嗅球の限局された特定の領域に入力され、高次脳へと伝わることを発見したと発表した。
同成果は、同大大学院農学生命科学研究科の東原和成 教授らによるもの。詳細は、米国科学誌「Neuron」オンライン速報版で公開された。
ムスクの香りは、有史以前からインドや中国において、薬や香油などに用いられてきており、現代でも、フレグランスから洗剤に至るまで多くの香粧品に用いられている。その原料は元々、ジャコウジカやジャコウネコなどの臭腺(香嚢)を腹部から切除し、乾燥することで得てきたが、ジャコウジカの雄は発情期になると、臭腺から出るこの匂いで自分のテリトリーを示し、雌を呼び寄せるといわれており、ムスクの香りは、ヒトに対しても、性ホルモンの量の変化を誘発するなどの生理作用をもつという報告もある。
現在は、ジャコウジカの捕獲が禁止されているため、天然のムスコンは希少となっているが、1926年に化学者のレオポルト・ルジチカが、ジャコウジカの分泌物の主要香気成分が大環状ケトン構造を有することを発見し、ムスコンと名付けて以降、香粧品に用いるムスクの香りとして、ムスコンの香気を模した数百種類のムスク系香料が合成されるようになっている。
一方、匂いを認識する嗅覚受容体(センサタンパク質)をコードする遺伝子は、マウスの染色体では1063個、ヒトの染色体では396個あり、近年の研究から、それらの嗅覚受容体1つひとつがどういった匂い物質を認識し、受容体と匂い物質は複数対複数の組み合わせで認識されていることが分かってきた。しかし、現在でも全体の数十%程度の受容体の匂いリガンドが同定されているに過ぎず、ムスコンの受容体は見つかっていなかった。
そこで研究グループは今回、ムスコンの受容体を同定し、嗅覚神経系でのムスク系香料の情報処理メカニズムを解明することを目指した研究を実施したという。
具体的には、マウスを用いて、嗅覚一次中枢である嗅球上の、ムスコンに応答する糸球体の探索を実施。既存の手法では測定不可能だった領域の匂い応答イメージング手法を確立することで、内側前部の限局した領域の一部の糸球体のみがムスコンに応答すること(ムスコンの応答糸球体)を発見した。
また、免疫組織化学的手法を用いても、ムスコンの匂いに応答したことを示すシグナルが、同様の領域に見られることを確認したほか、その領域を外科的に除去したマウスではムスコンを感知できないことも確認した。この結果は、ムスコンの匂い信号は、数個程度の嗅覚受容体を介して脳に伝わって認知されていることを意味するという。
さらに研究では、ムスコンとは異なる構造をもつニトロムスク、多環式ムスク、大環状エステルも、ムスコンの応答糸球体とは異なるものの、嗅球内側前方の領域で受容されることを確認。この結果、ムスク系の香り全体を象徴する動物的かつ官能的な香調は、嗅球の内側前部という特定の領域の活性化により生み出されている可能性が示されたという。
そこで、ムスコン応答糸球体に投射している嗅神経細胞に発現している嗅覚受容体を探索したところ、受容体「MOR215-1」を発見。実際に、MOR215-1を発現させたアフリカツメガエル卵母細胞やHEK293培養細胞はムスコンに応答を示しただけでなく、MOR215-1を発現する嗅神経が投射するマウスの糸球体もムスコン刺激に対して応答を示すことも確認したという。
また、MOR215-1のアミノ酸配列に類似したアミノ酸配列をもつヒトの受容体「OR5AN1」が、ヒトのムスコンの受容体であることも確認されたほか、MOR215-1は、生分解性に優れていて産業界でも重用されている大環状ケトン構造をもつムスク香料のみを認識し、他のムスク系香料やアミン、アルコール、アルデヒド、酸、エステル、ラクトンなどの香料には応答を示さないことを確認したという。
これらの結果について、研究グループでは、今後、これらの知見に基づき、MOR215-1受容体の匂い応答特性を利用した香料スクリーニング系を活用することで、産業的に有用なムスク系香料の新規開発につながることが期待されるとコメントしている。