理化学研究所(理研)は10月3日、米コロンビア大学との共同研究により、脳が経験などによって変化しやすい「臨界期」と呼ばれる発達段階の開始を「抑制性神経細胞」からの入力の増強と関連づけて説明する新しい理論を提唱したことを発表した。

成果は、理研 脳科学総合研究センター 神経適応理論研究チームの豊泉太郎チームリーダー、同・神経回路発達研究チームの宮本浩行研究員(当時)、同・杉山(矢崎)陽子研究員、同・Nafiseh Atapour研究員、同・Takao K. Henschチームリーダー、コロンビア大のKenneth D. Miller教授らの研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、日本時間10月3日付けで米科学誌「Neuron」オンライン版に掲載され、後ほど印刷版にも掲載される予定だ。

ヒトの脳は、数100億個以上の神経細胞同士がつながり合って複雑な脳神経回路を構成している。この複雑な脳神経回路は、遺伝情報を基にある程度作られた後、脳の自発的な神経活動や環境からの刺激によってより精巧な回路へと発達する仕組みだ。

特に、ヒトを含む高等生物の発達段階において、脳の働きが環境や経験、学習によって変わりやすい時期があり、それは「臨界期」と呼ばれている。臨界期は、環境からの刺激に応じて神経回路の再編、組み替えが最も強く見られる時期だ。例えば、臨界期中の動物において片方の目を継続的に閉じておくと、それに対応する神経細胞の反応が減衰するため、閉じていた目は見えづらくなってしまう。その一方で、臨界期後であれば、同様な実験をしたとしても閉じていた目でも物を見ることが可能だ。

感覚や言語、運動など、さまざまな脳の働きに対応して複数の臨界期が存在し、関連した機能の臨界期は連鎖して起こることがわかっている。特に臨界期を開始するメカニズムを解明することは、さまざまな脳機能とその発達を理解する上で重要な手掛かりとなるという。

神経細胞に刺激が入ってきた時、刺激を電気信号に変えてほかの神経細胞へ伝えることで情報伝達が行われ、これが多数の神経細胞間で繰り返し起こることで脳は機能する仕組みだ。神経細胞は興奮性と抑制性の2種類に大別され、お互いがバランスよく制御し合うことで適切に機能が維持されている。

過去のさまざまな研究から、臨界期の開始には抑制性神経細胞が成熟し、抑制性神経細胞からの入力が増強することが重要だという。例えば、視覚に関する臨界期が始まる前の幼弱なマウスに特殊な薬剤を投与して抑制性神経細胞からの入力を増強すると、臨界期の開始が早まることが報告されている。また、抑制性神経細胞からの入力の弱い遺伝子欠損マウスや暗室飼育によって抑制性神経細胞が未成熟のマウスでは、臨界期が始まらない。しかし、薬剤で抑制性神経細胞からの入力を増強すると、臨界期が始まるといった実験報告がある。

抑制性神経細胞からの入力増強は、どのように臨界期を始めるのか、その疑問に対していくつかの仮説があった。しかし、近年の実験報告から臨界期開始前でも経験に応じた脳神経回路の組み替えが起こることが発見され、既存の仮説ではこの現象を十分に説明できなかった。そこで、研究チームは、過去の知見を参考に抑制性神経細胞からの入力の増強が視覚野の臨界期を開始させるメカニズムについて新たな理論を提唱し、動物実験によってその理論を裏付けることに挑んだのである。

研究チームは、発達の初期段階において抑制性神経細胞からの入力の増強が脳神経回路の組み替えをつかさどる信号を内部由来の自発的活動から外部由来の感覚刺激に対する応答に切り替えることで、臨界期が始まるという理論を提唱。神経回路モデルの数学的解析と計算機シミュレーションの結果、この理論は抑制性神経細胞からの入力の増強による臨界期開始を説明できるだけでなく、従来の仮説では説明の難しかった臨界期開始前の視覚経験に応じた脳神経回路の組み替えも統一的に説明できることが示された。今回提唱された理論の具体的な内容は以下の通りだ(画像1)。

画像1は、今回の研究によって提唱された臨界期開始の理論から予測される神経細胞の入出力関係。同理論では抑制性神経細胞からの入力の増強によって、自発的入力(橙矢印)に対する神経細胞の応答が神経回路の組み替えに影響を及ぼさない程度にまで低下すると仮定されている。

この変化によって、臨界期以前(左図)には神経回路の組み替えが自発的入力と視覚刺激に対する入力(赤矢印)の両者に依存していたのに対し、臨界期中(右図)には視覚刺激に対する入力が神経回路の組み替えを決定するようになると予測できるという。緑線は神経細胞の入出力関係を表し、青線は神経回路を組み替えるのに最低限必要となる神経応答(可塑性閾値)を表している。

画像1。臨界期開始の理論から予測される神経細胞の入出力関係

今回提唱された内容は以下の3点。まず1つ目は、自発的活動低下により臨界期が始まること。網膜から1次視覚野への経路にある神経細胞は、視覚刺激がなくても常に活動し、1次視覚野へ自発的な入力を送っている。1次視覚野において、視覚刺激に対する応答に比べて自発的な入力に対する応答が十分に大きければ、片目を継続的に閉じても左右の目のバランスは保たれるという。しかし、視覚刺激に対する応答が自発的な入力に対する応答に比べて十分大きくなると左右の目のバランスが崩れ、閉じていた目に対する視覚応答が減衰してしまうというものだ。

2つ目は、抑制性神経細胞からの入力の増強により自発的に活動が低下すること。1次視覚野への自発的な入力は低強度・高頻度であり、視覚刺激に依存した入力は高強度・低頻度だ。臨界期開始時に抑制性神経細胞からの入力が増強されると、視覚刺激に対する強い神経応答は影響を受けないが、自発的入力に対する弱い神経応答は抑制されて、脳神経回路の組み替えに寄与しなくなってしまうというものだ。

3つ目は、臨界期開始前の実験事実の再現。片方の目を継続的に閉じた場合、閉じた目のまぶたを通して入る光刺激は解像度が低く、正常な視覚系の発達を阻害してしまう。臨界期開始前には1次視覚野への自発的な入力の効果で、片方の目を継続的に閉じた場合でも左右の目のバランスは維持されるが、閉じた目のまぶたを通して入る低解像度の光刺激のため、両目とも解像度の発達が遅れてしまうというものだ。

また、この理論を検証するために、抑制性神経細胞からの入力の弱い遺伝子改変マウスを使った電気生理実験が行われた。このマウスは、通常臨界期が開始しないが、薬剤によって人為的に臨界期を開始できることが知られている。1次視覚野の神経細胞に対し自発的入力および視覚刺激への応答をそれぞれ計測した結果、臨界期開始時において抑制性神経細胞からの入力が増強されることによって、神経細胞の自発的活動が視覚刺激への応答に比べ顕著に低下することが確認された(画像2・3)。この結果は、抑制性神経細胞からの入力の増強によって自発的入力が脳神経回路の組み替えに及ぼす影響が低下するという理論予想と整合するという。

画像2(左):遺伝子改変マウスを用いた電気生理実験。抑制性神経細胞からの入力の弱い遺伝子改変マウス(GAD65KO)を用いて、1次視覚野の神経細胞の自発的な活動とLED光刺激に対する視覚応答が計測された。画像3(右):これらのマウスに薬剤を投与して抑制性神経細胞からの入力を増強し、その前後の神経活動を比較した結果、視覚応答に対する自発的活動の相対的な応答強度が薬剤投与後に減衰することがわかった

感覚や運動などに関するさまざまな脳機能に関連した臨界期があり、単純な機能から複雑な機能へ対応する臨界期が連鎖して開始することが知られている。今回の研究から類推できる仮説として、抑制性神経細胞からの入力の増強によって神経細胞の自発的活動が低下することにより、脳神経回路の組み替えを決定する信号が将来形成されるべき大脳皮質の「階層性」に沿って外的な環境要因へと切り替わり、これをきっかけに臨界期の連鎖が起きることが考えられるという。近年では、発達段階において大脳皮質の抑制性神経細胞は、このような階層性に沿って成熟するという研究報告もある。

今後、臨界期の連鎖が自発的な神経活動の選択的低下を伴うか、自発的活動の低下を阻害することで臨界期の連鎖が止められるかなどの検証を進めることで、大脳の発達メカニズムの理解が進むと考えられるという。今回提唱した理論は、脳の発達過程を示す基本原理の1つと期待できるとしている。