大阪大学(阪大)は9月17日、大和製罐との共同研究により、ワインの「ブショネ(bouchonne、コルク汚染)」など、飲食品の風味の著しい低下の主な生体機構が、原因物質「2,4,6-trichroloanisole(TCA)」による嗅覚経路の遮断によることを突きとめたと発表した。
成果は、阪大大学院 生命機能研究科の竹内裕子助教、同・倉橋隆教授、大和製罐の加藤寛之博士らの共同研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、米国東部時間9月16日付けで米科学雑誌「米科学アカデミー紀要(PNAS)」オンライン速報版に掲載された。
飲食品で自然発生し、食べ物の風味を著しく低下させてしまう不快な臭いは「オフフレーバー(off-flavor)」と呼ばれる。現在までこの不快な臭いは、外因的に発生する不快なニオイ物質の発生によって引き起こされる別のニオイであると考えられてきた。
そのようなoff-flavorを代表する物質に、ワインのブショネを起こすことで有名なTCAがある。TCAは「フェノール」をベースとして、活性型の塩素とコルク栓に寄生する微生物によって自然発生する仕組みだ。従来はコルクが大部分の要因であると考えられ、コルク汚染と呼ばれたが、コルクを排除してもTCAの含有は根絶されないために、さまざまな要因が絡んでいることが見えてきた。
TCAは一般的な測定器の検出限界以下の極微量で香りを劣化させるために、その存在を逐一測定することは困難で、ワインを開栓してテイスティングして初めて確認できるというのが現状だ。ブショネが確認されるのは約5%の割合で、そのワインは廃棄せざるを得なくなり、これによる経済損失は年に1兆円に上るとも推測される。そのような状況であるにも関わらず、ヒトの嗅覚に対するTCAの作用は不明だった。
いい香りの匂いにしろ、不快な臭いにしろ、ニオイをヒトが感じる仕組みは、まず鼻の中にニオイ物質が入り、ニオイを感じる「嗅細胞」の先端に生えている直径100nmの微細な「線毛」を興奮させることから始まる。線毛に高密度に発現しているイオンチャネルを介して、ニオイ物質が持つ化学信号が生体電気信号へと変換され、その電気信号が脳の「嗅球」へと伝わり、固有の「匂い」と知覚されるというわけだ。そこで研究チーム今回、TCAの嗅細胞への効果を直接検討することにしたという。
実験は、イモリの単一の嗅細胞のチャネル活動を電気的(パッチクランプ法)に記録する形(画像1)で行われた。その結果、TCAを嗅細胞に投与すると、嗅細胞線毛に発現している匂い情報変換チャネル「サイクリックヌクレオチド感受性チャネル(CNGチャネル)」の活性が抑制されることが見出されたのである。CNGチャネルは細胞内のcAMPによって開くが、100nm直径の線毛なので還流などはできない。今回の実験では「光活性化cAMP(caged cAMP)」を細胞内に入れ、外部から光を当てることでチャネルの制御が行われた。
CNGチャネルは、ほとんどの匂いの情報変換を担っているイオンチャネルであり、TCA存在下でヒトの「匂い知覚の減少」が引き起こされることと等価だ。TCAによるチャネル抑制作用は匂いを抑制するといわれ、香料にも利用される強力な、「ゲラニオール」やバラ様の香りといった「嗅覚マスキング」(匂いが匂いを消す作用で、嗅細胞CNGチャネルを阻害することで生じると考えられている)物質やイオンチャネルの抑制剤「L-cis diltiazem」よりも強い効果を示したのである(画像2)。
さらに、チャネル抑制は1aM溶液という極低濃度でも観察された。これは薬物としても「法外な」値だ。生体で通常の薬物の作用濃度は、フグ毒のTTXなどのようにマイクロモル(μM)のオーダーである。1aMは1μMより1012倍ほど薄いのだ。ゆっくりとした時間積算効果や、抑制率と水相・脂質分配係数「LogD」との相関からも、今回の結果はTCAや関連物質が細胞膜を構成する脂質2重層を介して、チャネルを抑制しているメカニズムを示唆した形である。
なおLogDとは、化学物質の特性である疎水性を表す分配係数のことをいう。水と油(オクタノール)からなる界面に、ある物質を入れた時どちらに多く存在するかを意味する。数値が高いほど油に溶けやすい。また脂質2重層とは、リン脂質が平面膜を構成したものだ。リン脂質は親水性の小さな頭と疎水性の長い側鎖を持っていて、親水基を細胞外液と細胞内液へ向け、側鎖を膜内に収めているため、脂質二重膜の内部は高い疎水性の特性を持つのである。
ヒトの五感の中でも嗅覚は特別で、匂いの感じ方は非常に曖昧だ。視覚や聴覚などと異なり、嗅覚の情報は匂いの種類を特定するよりも前に、脳の上位部位(辺縁系)に情報を送る仕組みがその理由の1つである。つまり、嗅いだものが何であるかを知ることなく、記憶(海馬)が呼び起こされたり、情動(扁桃体)が変化し好き嫌いが生じたり、体調が変化(視床下部)するのが嗅覚の特徴の1つというわけだ。
その曖昧であることから、ワインのブショネによって嫌な匂いが加わったと感じられることも多いのだが、今回の発見ではTCAによって嗅覚の減弱・遮断が起こっているということが初めて分子的観点から明らかになった。これを基に、身の回りの飲食品で風味が落ちて品質が劣化した商品の検討がなされたところ、驚いたことに、TCAはワインのみならず商品価値が下がった多種多様な飲食品中(バナナ、カシューナッツ、鶏肉、ビール、日本酒、ミネラルウオーター、水道水、ウィスキー、リンゴ、栗、卵、小麦粉、玉ねぎ、レーズン、ウニ、エビ)や梱包材(住宅建材、食品パック用フィルム、紙袋)にも含まれていることがわかったのである。つまり、TCAの効果が風味低下であると認識されなかったために、食品にTCAが含まれるとは誰も予想せず、検証も行われてこなかったというわけだ。
今回の成果のポイントとなる点は、従来、曖昧であった飲食などの摂取物の質的価値を決める1パラメータに「抑制」という概念が新たに明瞭化され、物質的・科学的に定量化された点にあると考えられるとする。食品に含まれるTCAは一般的な測定機器では検知できないほど薄いため、これまで気づかれない存在だったこともあるが、TCAは飲食品自体の質以外にも、流通経路、すなわち洗浄、輸送や保管の過程で混入する可能性があり、今後、関連する多くの業界がTCA混入の可能性を再検討することで広い範囲の商品の品質向上が期待されるという。
また、TCAの生体内におけるわずか1aMでの作用は薬剤として驚異的な薄さであることは前述した通りで、チャネルブロッカーとして知られる薬品よりも高い抑制効果を示している。よって、飲食品以外の産業界ではTCAの持つ強力なチャネル抑制剤としての側面を利用し、「嫌な匂いを消す」製品に応用することも期待できるとする。劣悪な匂い環境における一時的な匂い感受性低下を始め、幅広い分野で、今回の研究で得られた生理的消臭原理、つまり、「化学的・物理的・生物的消臭法」という既存の概念とは異なる新しい概念の消臭原理を取り入れた製品開発に繋がることも期待できるとした。
さらに、TCAが驚異的な濃度でチャネル抑制を起こす動作原理が推察されたことから、痛覚などの感覚遮断剤、チャネル阻害剤の分子設計の指針となることまで期待されるという。その上見方を変えれば、ヒトの鼻にある嗅細胞が極度に薄い濃度のTCAにも影響を受けることが発見されたことで、嗅細胞をどんな測定機器よりも優れた抑制因子の存在を確認するセンサとして使えることも期待できるとした。