高輝度光科学研究センター(JASRI)は7月19日、米国ヒューストン大学、ミシガン大学、テネシー大学と共同で、大型放射光施設SPring-8の高輝度・高エネルギー放射光X線を用いて、生体細胞内などナノ領域に閉じ込められた水が、コップの中に注がれたまとまった量の水(バルク水)とは、大きく異なる電子状態であることを発見したと発表した。

同成果は、JASRIの伊藤真義副主幹研究員、櫻井吉晴副主席研究員、ヒューストン大学のReiter教授、ミシガン大学のDeb准教授、テネシー大学のPaddison教授らのグループによるもの。詳細は米国科学雑誌「Physical Review Letters」に掲載される予定。

水は地球上の生物が生きていく上で欠くことのできない物質である。その水がコップの中の水のようにまとまった体積を持つこと(バルク水)で、幾つかの優れた性質を有するようになるという。例えば、普通の物質なら気体であるはずなのに室温で液体であること、氷が水に浮くことが示すように固体は液体より軽いこと、大きな比熱や気化熱を有していること、などが挙げられる。特に、比熱や気化熱の性質は、冷熱を貯蔵する機器や動物の体温調整などにも使われている。このような特性の起源は、隣接する水分子同士の水素と酸素がそれぞれの電子を介して手を結んでできた水素結合により形成された水分子ネットワーク構造にあると考えられている。

図1 水分子の局所配置。赤は酸素、白は水素を表す。酸素は負に、水素は正に帯電しているので、静電力により水分子同志は弱く結合して、水分子ネットワーク構造をつくる。ナノ領域に閉じ込められた水は数ナノメートルの大きさに分断され、バルク水とは異なる挙動を示す

近年、工業的に重要な水を通す電解膜の研究開発や、生体細胞の機能の研究分野において、ナノ領域に閉じ込められた水の性質に注目が集まっている。ナノ領域の水の挙動や性質を理解するためのモデルとして、水分子同士が弱い静電力で結合してネットワーク構造を作るという従来のモデルが用いられてきたが、研究により、ナノ領域に閉じ込められた水は-20℃でも凍らず、100℃でも沸騰せず、また水素の原子核であるプロトンの移動が加速するなど、バルク水とは大きく異なっていることが分かってきた。これにより、ナノ領域のモデルとして従来のモデルを用いて良いのかという疑問が噴出してきた。そこで、今回の研究では、バルク水とナノ領域に閉じ込められた水の状態に違いがあるのかどうかを明らかにするために、コンプトン散乱測定を行ったという。

ナノ領域に閉じ込められると水分子ネットワークは分断され、水分子ネットワークの電子の速度分布(電子状態を表す指標の1つ)が変化する。コンプトン散乱は、運動する電子の速度を直接測定できる実験手法のため、ナノ領域に閉じ込められた水分子中の電子の速度分布の変化を精密に測定できる。今回の実験では、100keVを超える高エネルギーX線が必要であることから、SPring-8の高エネルギー非弾性散乱ビームライン「BL08W」を用いた。182keVの高エネルギーX線を試料ホルダー中のバルク水あるいは電解膜中の水に照射し、それぞれの水からのコンプトン散乱X線をゲルマニウム半導体X線検出器で検出した。電解膜中の水は、約2nmの大きさに分断されている(図2)。コンプトン散乱X線のエネルギー分布から水分子中の電子の速度分布をもとめ、水をナノ領域に閉じ込めることにより、速度分布がどのように変化するかを見るために、速度分布の差をとった。図3はバルク水と電解膜中のナノ領域に閉じ込められた水の電子の速度分布の差を示す。2種類の電解膜(Nafion1120とDOW858)について測定しているが、両者は同じ結果を与えている。電子の速度(光速に対する比)がゼロ近傍で正、1-2近傍で負になっており、この結果、水はナノ領域に閉じ込められると動きの遅い電子の数は減少し、動きの速い電子の数が増加していることを示している。これらの実験結果は、従来のモデルに比べて17倍の数の電子が速く動くようになることを示しており、バルク水で用いられているモデルをナノ領域に閉じ込められた水に適用できないことが分かった。つまり、水をナノ領域に閉じ込めることにより水分子ネットワークが分断されると、個々の水分子は孤立するとともに水分子同士がお互いに強く結合するようになることが明らかになったとした。

図2 水を含んだ電解膜の走査電子顕微鏡像(左)と電解膜分子により約2nmの領域に閉じ込められた水分子の概念図。走査電子顕微鏡像で、白い領域は電解膜分子、黒い領域は閉じ込められた水分子に対応する

図3 電解膜中のナノ領域に閉じ込められた水分子とバルク水分子の電子の速度分布の差

ナノ領域に閉じ込められた水の挙動を予測するモデルとして、バルク水と同様の水分子ネットワークを前提としたモデルが用いられてきたが、今回の研究成果は、このモデルの見直しを迫るものと言える。また、ナノ領域に閉じ込められた水のモデルとして、より強く結合している孤立した水分子の描像に立った新しいモデルを提案した(図2右)。今後、この新しいモデルの検証やさらに進化したモデルの提案により、ナノ領域に閉じ込められた水に対する理解が深まるとともに、モデルをもとに水分子の挙動を予測するシミュレーション法が発展し、より効率的な燃料電池用電解膜の開発や生体細胞の機能に関する理解が進むものと期待されるとコメントしている。