東京大学(東大)と理化学研究所(理研)、高輝度光科学研究センターは、大型放射光施設SPring-8を利用して微小な磁石の配列パターンを解明し、その間に働くコンパス型の相互作用を実証したと発表した。これにより、量子コンピュータに利用可能なキタエフスピン液体の実現に前進したという。
成果は、東大 物性研究所 大串研也特任准教授、理研 放射光科学総合研究センター 利用技術開拓研究部門 量子秩序研究グループ スピン秩序研究チーム 有馬孝尚チームリーダー、大隅寛幸専任研究員らによるもの。詳細は「Physical Review Letters」に掲載された。
電子は1つ1つが、スピン角運動量と軌道角運動量の2つの成分からなる小さな磁石(磁気モーメント)としての性質を持つ。物質中に無数に含まれる磁気モーメントが秩序だって整列すると、物質全体が磁石としての性質を帯び、モータやHDDなど様々な用途に活用することが可能となる。磁気モーメントの秩序を導くのは、磁気モーメント間の相互作用であり、こうした相互作用の代表例として、量子力学の創始者の1人であるWerner Heisenbergにより提唱されたHeisenberg模型が挙げられる。この相互作用はあらゆる方向の磁気モーメントに同様に作用する等方的なものであり、多数の物質で実現されていることが分かっている。
一方で、特定の方向の磁気モーメントにのみ作用する異方的な相互作用として、図1のようなコンパス模型が知られている。この模型は理論的な観点から注目を浴びてきた。Alexei Kitaevにより、蜂の巣格子上の量子コンパス模型が厳密に解かれ、最も安定な状態は磁気モーメントが静的な秩序を示さないスピン液体であること、および励起状態がトポロジカル量子コンピュータに応用可能なエニオンであることが明らかにされている。しかし、実際の物質でこうした相互作用が成立している例は知られていなかった。
図1 コンパス模型の模式図。多数のコンパス(方位磁石)を直線状に並べると、互いに相互作用することでN極とS極が向かい合った状態が安定になる。図(a)のように磁石が横を向いた状態は、図(b)のように磁石が縦に向いた状態よりもエネルギー的に安定である。こうした、異方的な相互作用のことをコンパス模型と呼ぶ。Heisenberg模型では、図(a)と図(b)の配置が同一のエネルギーを持つ |
今回の研究では、ポストペロブスカイト構造を有するCaIrO3に着目して行われた。磁性を担うイリジウムの磁気モーメントは、酸素を介して隣接するイリジウムの磁気モーメントと相互作用する。近年のイリジウム化合物に関する理論は、相対論効果であるスピン軌道相互作用によりイリジウム-酸素‐イリジウム結合角に応じて磁気相互作用が質的に異なることを予言している(図2)。具体的には、結合角が90度の場合は磁気モーメントを平行に揃えようとする量子コンパス模型で、180度の場合は磁気モーメントを反平行に揃えようとするHeisenberg模型で表されることを予言している。ポストペロブスカイト構造においては、90度と180度の結合角を有する2種類の交換相互作用が存在し、この理論を検証する絶好の舞台だと考えられる。
研究グループは、大型放射光施設SPring-8において共鳴X線散乱実験を実施することでCaIrO3の磁気構造が図3のようであることを明らかにした。通常、磁気構造は中性子線を用いて調べるが、イリジウムは中性子を吸収する性質があり実験を行うことができなかったため、放射光X線を使った最先端の手法を用いた。図3(b)においては、1つの矢印で磁気モーメントの方向を表しているが、実際には図3(a)のようにスピン軌道相互作用により結合したスピン角運動量と軌道角運動量の2つの成分の和となっている。磁気モーメントは、結合角が90度の場合には平行に、180度の場合には反平行に整列しているが、これは理論の予言と完全に合致する。また、磁気モーメントは、異方的な量子コンパス模型の反映として僅かに傾いており、物質全体として磁石の性質を有することが判明した。このようにして、量子コンパス模型の実証に成功した。
CaIrO3において、量子コンパス型の相互作用は一次元的に作用しているが、今後は蜂の巣格子上の量子コンパス模型で記述される物質探索に展開されることが予想される。こうした物質でKitaevスピン液体が実現した暁には、その励起状態であるエニオンを利用したトポロジカル量子コンピュータへの応用も考えられる。こうした展開を見越して、CaIrO3の励起状態に関する研究にも興味が持たれるとコメントしている。