慶應義塾大学(慶応大)は5月16日、京都大学との共同研究により、大型類人猿などの希少霊長類のiPS細胞を作成する研究を行い、チンパンジーの新生児および成体の細胞からiPS細胞や神経系細胞を作成することに成功したと発表した。
成果は、慶応大 医学部生理学教室の岡野栄之 教授、同・今村公紀 特任助教、京大 霊長類研究所の平井啓久 所長、今井啓雄 准教授らの共同研究チームによるもの。なお、iPS細胞の作成には自然死したチンパンジーの個体の細胞が用いられており、チンパンジーに対して苦痛をもたらす操作は加えていないということである。
iPS細胞の研究ペースは、現在、相当な勢いで進んでおり、国内でも毎月何件ものiPS細胞やES細胞、ならびにそれらに関連する再生医療などの発表が相次いでいる。これまで、それらの発表の多くはヒトへの利用を目的としたものが多かったが、その利用法はヒトの医療分野だけに留まらないほど、可能性を秘めている(最終的にヒトに応用するための途中経過として、マウスなどヒト以外のiPS細胞も作られてはいる)。
京都大学霊長類研究所は、国内で最大の霊長類の研究機関であると同時に、13種・約1200個体の霊長類を保有する飼養施設だ。その中には、チンパンジーやテナガザルのように個体数が激減している類人猿も含まれている。これまでなら個体が死亡してしまえば、共に遺伝子情報が失われてしまうわけだが、これらの霊長類からiPS細胞を作成して保存すれば、その遺伝子情報を半永久的に保存することが可能だ。またiPS細胞から精子や卵を作成することができれば、「生殖補助技術」(ヒトで行われているところの不妊治療における、人工授精や顕微授精など、人為的な受精法のこと)によって人工繁殖を行うこともできるというわけである(画像1)。
またヒトに近い大型類人猿は、主に脳神経科学などの研究分野において、ヒトを理解するための重要な研究対象だ。例えば、ヒトとチンパンジーのゲノムDNAの配列における違いは1.2%しかないが、高度な知性や言語の獲得はヒトでのみ認められる。よって、研究対象とされるわけだが、生命倫理や動物愛護の観点から、個体に苦痛を与えるような実験操作を施すことは適切ではないことはいうまでもない。
そこで、実験に必要となる細胞をiPS細胞から作成すれば、霊長類研究における「動物実験代替法」(生命科学の研究において、生きた哺乳動物を実験に用いる代わりに、昆虫や微生物、あるいは培養細胞や卵などを用いて実験を行うこと)を提供することにつながる。さらに、ヒトとチンパンジーのiPS細胞を用いて神経細胞の発生過程を再現し、両者の違いを比較解析することによって、ヒトに固有の特徴や能力が生じるメカニズムを解明することができるとも期待されるというわけだ(画像2)。
そうした背景の下、研究チームは今回、大型類人猿のiPS細胞を作成する最初の試みとして、チンパンジー由来のiPS細胞の作成に挑んだのである。動物園で自然死したチンパンジーの新生児および成体から採取した「線維芽細胞」(皮膚の真皮などの結合組織を構成する細胞の1種)を培養し、ヒト由来のiPS細胞を作成する場合と同じ、「山中4因子」とも呼ばれるOCT4、SOX2、KLF4、C-MYCの4つの「初期化因子」を導入したところ、チンパンジーにおいても効率よくiPS細胞を作成することに成功した(画像3)。
ヒトとチンパンジーではゲノムDNA配列が異なることから、この違いを利用して、得られたiPS細胞がヒト由来ではなくチンパンジー由来であることを確認。チンパンジー由来のiPS細胞は4ヶ月間以上、安定に増殖し、凍結保存することが可能だったという。
また、「多能性マーカー遺伝子」(iPS細胞やES細胞などの多能性幹細胞で特徴的に作られているタンパク質などの分子のことで、iPS細胞やES細胞を識別する目印となる)を発現しており、免疫不全マウスに移植すると腫瘍を形成することも確認された。さらに、神経細胞への分化誘導する条件で培養することで、「ニューロン」や「グリア細胞」といったいずれも神経系の細胞に分化させることに成功した。
今後は、チンパンジー由来とヒト由来のiPS細胞および神経細胞などにおける類似性と相違点について検討し、1.2%しかないゲノムDNA配列の違いが、どのようにして両種の違いを生み出すか、といった疑問の解明を目指すことにより、進化生物学的なヒトの特徴についての理解を深めたいと考えていると、研究チームはいう。さらに研究チームは、チンパンジー以外の希少霊長類のiPS細胞の作成にも着手する予定とした。