米科学誌「Science」の成果発表記者会見として、4月22日に文部科学省・科学研究費補助金新学術領域研究「環太平洋の環境文明史」の領域代表である茨城大学の青山和夫教授(画像1)、同領域研究の計画研究A01「年縞環境史」の代表である鳴門教育大学の米延仁志准教授(画像2)による、「グアテマラ共和国セイバル遺跡の初期祭祀(さいし)建築群とマヤ低地におけるマヤ文明の起源」(発表論文のタイトルの邦訳)と題した発表が行われた。
今回の発掘調査により、紀元前800年頃とされていた従来のマヤ文明の起源が200年早まって紀元前1000年頃まで遡れること、さらに地域間ネットワークに参加して観念体系、美術・建築様式などを取捨選択しながら採り入れ、また重要な物資などを交易し、より周辺地域と相互に影響しつつ文明が築き上げられていったことがわかったとした。
環太平洋の環境文明史は、2009年~2013年度の5年間にわたり、5億2470万円の研究助成金を受けて行われている研究だ。既存の学問分野の枠に収まらない、つまりは世界に類例のない新興・融合領域である環太平洋の環境文明史の創成を目指し、また環太平洋の古代文明の盛衰と環境変動の相互関係を探求するといった内容である(画像3)。
研究の具体的な目的は、(1)環太平洋の非西洋型諸文明(メソアメリカ、アンデス、太平洋の島嶼、東南アジアなど)の盛衰に関する通時的比較研究、(2)環境史の精緻な記録である湖沼年縞堆積物(湖沼の底において1年に1つ形成される「土の年輪」)を用いた環太平洋の環境システムの変遷史と諸文明史の因果関係の解明、(3)その歴史的教訓と今日的意義の探求だ。
なお、これら3つの目的を通し、従来の西洋中心的な人類史を再構成すること、当該領域の学術水準を国際的に向上・強化し、革新的な人材育成に繋がることなどにも大きな影響を与えられるとして行われているという側面もある。
また環太平洋の環境文明史は4つの研究班で構成されており(画像4)、計画研究A01が、冒頭で述べたように米延准教授による年縞環境史(前述の目的の(2))だ。A02がメソアメリカ文明史で、領域代表の青山教授が同研究班の代表も兼ねる。そしてA03が「アンデス文明史」で、山形大学の坂井正人教授が代表だ(今回の会見で司会を担当した)。最後のA04は「琉球・島嶼文明史」で、札幌大学の高宮広土教授が代表である。
すでに5年目となることからさまざまな成果が出ており、例えば(2)の湖沼年縞堆積物については、福井県若狭町にある水月湖の年縞堆積物の採掘・研究という日英独国際プロジェクトによる大きな成果が発表済みだ(画像5・6)。放射性炭素のC14による年代測定法の較正(キャリブレーション)用データとして、従来とは比較にならないほどの過去の5万2800年前まで正確に遡れる年代目盛りが完成したというもので、レポート記事はこちら。興味のある方はぜひお読みいただきたい。なお米延准教授は、その時の会見にも出席している。
画像5。福井県若狭町にある水月湖の固定から年縞堆積物が採取された |
画像6。年縞堆積物。年輪のように1年ごとに縞模様ができるので、日本の研究者が中心となってその採取と正確なカウントを行い、5万2800年前までの年代目盛りを完成させた |
そして今回の発表は、A02班のメソアメリカ文明史のものであり、同地域の古代文明としてはアステカと並んで有名なマヤ文明の発掘調査の成果についてだ。今回の調査の目的は、約2600年にわたるマヤ文明の盛衰の通時的研究、つまりはマヤ文明の起源、王権や都市の盛衰、マヤ文明そのものの盛衰と環境の変化である。
調査団は、日本、アメリカ、スイス、フランス、カナダ、ロシア、そして現地のグアテマラという多国籍で編制された。団長は、今回の論文発表の筆頭著者であり、青山教授の親友というアリゾナ大学人類学部の猪俣健教授が務めた(アメリカ科学財団(NSF)などのアメリカ側の研究助成金獲得も担った)。そのほかに同・ダニエラ・トリアダン准教授(共同団長)、アリゾナ大学人類学部博士課程学生のビクトル・カスティーヨ氏(グアテマラ代表の共同団長)といった編制だ。なお、青山教授も共同団長を務めている(画像7)。また、当該地域の人材育成を行うという面から、グアテマラ出身の学生であるカスティーヨ氏が共同団長となっている(カスティーヨ氏らグアテマラ出身の複数の学生たちは現在、猪俣教授の下で学んでいる)。また、米延准教授も炭素14年代測定の面で活躍しただけでなく、何度か現地を訪問して発掘場所にも潜ったりもしたという。
ちなみにマヤ文明というと、世間一般的には、今やすっかり笑い話状態だが「2012年人類滅亡説」のイメージが強いのではないだろうか(たぶん科学好きの方は、12月21日ピッタリに滅ぶわけがないとわかっていたとは思うが)。もう少し詳しい人だと、その滅亡説の根拠となっていたのが正確で壮大なサイクルを持つマヤ暦だとか、エジプトほど巨大ではないがピラミッドを作れる建築技術があったことなどをご存じのことだろう。
中には、某大河コミックの第1部・第2部当たりの「石仮面」とか「柱の男」なんかをイメージする人もいるかも知れない(笑)。まぁ、同じメソアメリカ文明とはいえ、厳密にはあちらはアステカでの話なのでもっとメキシコ寄りなので、場所も時代も異なるのだが。ちなみに青山教授にうかがったところ、骨針付きの石仮面は出土していないし、柱の男も発見していないそうである。
話がそれたが、マヤ文明をもう少し紹介すると、紀元前1000年頃(後述するが、これまでは紀元前800年頃からとされてきた)には少なくとも存在し、それから16世紀にスペイン人に滅ぼされるまで(実際に滅んだのは侵略だけではなく環境問題もあるとされ、まだ正確にはわかっていない)約2600年間続いた文明だ。地域としては、現在のメキシコ南東部からグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス西部にかけてである。モンゴロイド先住民(ネイティブ・アメリカンと同様、日本人など東アジア人とDNA的に近い)による石器を主要利器とした都市文明だ(画像8・9)。
画像8。マヤ文明は、現在の国でいうところの、メキシコ南東部から、その南部のグアテマラ、その東部のベリーズ、グアテマラ南東部のホンジュラス西部に位置した。(c) グーグルマップ |
画像9。マヤ文明の主要な遺跡。かなりの数がある。セイバルとは、今回発掘調査が行われた遺跡 |
青山教授によれば、鉄器を用いない、人類史上で"最も洗練された"石器の都市文明だという(画像10)。また、コロンブスの到達以前で、前述したように暦やそれと関連する天文学、また文字(文字の総数は4~5万あるといわれ、10万文字といわれる漢字の次ぐらいに多い)などを最も発達させていた文明でもある(画像11)。
画像10。後ほどお見せするが、今回の発掘でもさまざまな石器が出土した |
画像11。マヤ文字。文字の種類が4~5万あるとされ、漢字に近い多さだ(ちなみに日本の常用漢字の総数は2136文字)。支配層が使っていたという |
なお、マヤ文明は1つの王朝が支配していたようなイメージを持っている人も多いと思うが、実は小都市国家群の地域間ネットワークの文明だった点も特徴の1つだ(画像12)。スペイン人に滅ぼされるまで、さまざまな王国が共存していたのである。ちなみに滅んだとはいっても、あくまでもマヤ文明が滅んだ(王朝を維持できなくなった)ということであり、マヤ人が皆殺しにされたというわけではない。現在は800万人の末裔が現地で暮らし、「現代マヤ文明」を日々創出しているのである。
そんなプロフィールを持ったマヤ文明の遺跡の中で、今回、発掘団が調査を行ったのが「セイバル遺跡」だ。マヤ文明の遺跡というと、世界遺産に指定され、マヤ文明の歴史の「古典期」(後述)の中心都市だった「ティカル遺跡」が有名だが、セイバル遺跡もグアテマラを代表する国宝級の大都市遺跡であり、国立遺跡公園に指定されている(画像13)。ジャングルの真っただ中を流れるパシオン川を望む、ペテン県の比高100mの丘陵上にある遺跡だ(画像13・14)。
グアテマラにとっては大事な遺跡であるため、当然、簡単には発掘調査の許可が下りない。そのため、初めて同遺跡でハーバード大学によって本格的な調査が行われたのが1964年から1968年までなので、今回の「再調査」まで40年間も要した(発掘調査自体は2005年からスタートした)。ちなみに青山教授の師匠で、現在のマヤ文明の世界最高権威とされるジェレミー・A・サブロフ博士は大学院生時代に師匠と、そのさらに師匠の博士たちと共に参加したそうである(画像16・17)。
画像16。50年前のハーバード大による発掘調査の様子。一番右がサブロフ(Sabloff)博士(当時・大学院生)で、その左が師匠のウィーリー(Willey)博士で、その左がさらにその師匠のスミス(Smith)博士 |
画像17。2006年に撮影された、サブロフ博士と青山教授。さすがに40年の歳月を感じる |
50年前のハーバード大の調査も4年ほどかけて行われたが、さすがに何から何まで調べることができたわけではなかった。マヤ文明の歴史は大別すると、「先古典期」(紀元前1000年~西暦250年)、古典期(西暦250年~西暦900年)、「後古典期」(西暦1000年~16世紀の滅亡まで)の3つに分かれるのだが(画像18)、この内の古典期の研究に重点が置かれていた(画像19)。そのため、実は「マヤ文明はいつ頃勃興したのか」といった先古典期に関するデータが不足していたのである。そこで、今回の調査では、先古典期に関する調査が行われたというわけだ。
具体的には、セイバル遺跡の中心部にある大基壇、神殿ピラミッド(画像20)、中央広場、王宮などで、かなり広範囲に発掘区が設定された(画像21~23)。そして地表面から10m以上も下にある自然の地盤まで数年かけて掘り下げ、多大な労力と時間を要する大規模で層位的な発掘調査に挑んだのである(画像23)。なお、「層位的な発掘」でわかることとは、深く掘っていくことで、何らかのかく乱がない限りは、深い地層にあるものほど古い年代であるということだ。
画像22。画像21の赤丸の内で、Eグループの辺りの拡大図。A-20と書かれたピラミッド状の建築物や、「公共祭祀を執行する空間」と書かれたA-10と書かれたピラミッド状建築物前方の広場なども発掘された |
画像23。スケールは画像21と22の中間位で、それに色がつけられたもの。中心は、画像22とだいたい同じ位置。色がついているので、ピラミッド型の建築物が複数あるのがわかりやすい |
その結果、自然の地盤の上に先古典期中期の前半(紀元前1000年~紀元前700年)の紀元前1000年頃に建造された中央広場(画像25)と、その東と西に面する公共祭祀建築(画像26)の基壇が出土した(画像27・28)。さらに、セイバル最大の神殿ピラミッドを頂く大基壇の発掘調査によって(画像29・30)、先古典期中期の前半に建造された幅が34mを超える大きな基壇が検出された。
画像25。掘られたトンネル内で見られる、最初の公共広場の床面と自然の地盤 |
画像26。公共祭祀建築は、春分、夏至、秋分、冬至の時に複数の建物を結んだ延長線上に太陽が姿を見せるように建てられており、高度な天文学と測量技術、建築技術などを備えていたことがわかる |
画像27。A-10ピラミッド手前の、公共祭祀建築の発掘の様子 |
画像28。A-20ピラミッド内部の、発掘の様子。増改築の層と、最古の公共祭祀建築の層が見て取れる。最古の公共祭祀建築の層は紀元前1000年頃のもの |
画像29。神殿ピラミッドの正面の発掘調査。床面は最初の公共広場の床面である(紀元前1000年頃のもの) |
画像30。神殿ピラミッドの上からの発掘トレンチ(トレンチとは、発掘調査をする際に余計な土砂などを取り除いた溝のことだが、ここは地下へ降りるための縦穴も含める) |
そのほか、中央広場に面する2つの公共祭祀建築は増改築され続けたこともわかり(画像31・32)、紀元前9世紀頃には西側の公共祭祀建築に神殿ピラミッドが構成されたことが判明している。セイバルの初期の建設活動は、従来考えられていたよりも盛んだったのである。
画像31。中央広場に面する公共祭祀建築が増改築され、神殿ピラミッドが建築されたという結論に達した |
画像32。公共祭祀建築は増改築され続け、紀元前1000年頃から西暦900年頃までに30回以上の増改築されたことがわかった |
また、中央広場における最初の床面の下にある自然の地盤の中からは、翡翠を含む硬質の緑色石製磨製石斧の供物が出土したことは、青山教授も驚いたという(画像33・34)。その翡翠は、トウモロコシの穂か種を象徴したものと考えられており、マヤで重要な数字である4の3倍の12個だった。
普通、自然の地盤に突き当たったら、そこから下は地質学的には研究する価値はあるかも知れないが、考古学的には何も出土しないはずなので掘らないのだが、青山教授らがいわゆる「持ってる」ということなのだろう。青山教授が、無駄骨だからと(さらに自然の地盤は固い)嫌がるスタッフを説き伏せて掘らせたら、地面から40cmほどのところに埋まっていたそうである。
この磨製石斧は、前1000年頃に「公共祭祀を執行する空間」を創設する儀礼の一部として中央広場に埋納されたという。これもマヤ低地では最古の出土品となる。ちなみに翡翠は緑色の硬い玉であり、メソアメリカではグアテマラ高地だけで産出し、マヤ人にとって緑と青は世界の中心の神聖な色であることから、貴重なものだった(画像35)。緑色石製磨製石斧の供物は、さまざまな種類が出土している(画像36)。このほか、さまざまなものも出土した(画像37・38)
なお炭素14年代測定は正確さを期するため、消し炭など陸生植物を中心に56点の出土品が利用された。これだけの豊富な試料で測定を行ったのは、マヤ考古学では例外的だという。層位的な発掘と炭素14年代測定を組み合わせることで、最終的に紀元前1000年にはセイバル遺跡において公共の祭祀建造物が建築されていたことがわかったというわけである(画像38)。
画像35。方位を表すマヤ文字と色。中央に青・緑があり、翡翠が重宝されるのがわかる |
画像36。さまざまな緑色石製磨製石斧。マヤ人にとって、4とその倍数の8や12、20進法なので20とその4分の1の5、7日周期なので7などが重要な数字だ |
従来の説より200年遡ることでどのような変化があるかというと、実はメソアメリカ文明史における各文明同士の関わり方に大きな変化が出てくるのだという。これまでは、マヤ低地の農民が土器を使い、前1000年頃に主食のトウモロコシ農耕を基盤にした定住村落を営み始め、「オルメカ文明」を引き継ぐように一方的な影響を受けつつ、もしくは独自に発展し、前800年以降に最初の公共祭祀建築が建てられたのがマヤ文明だとする考え方が主流だった。
なおオルメカ文明とは、紀元前1200年頃(紀元前1500年頃とする説もある)から紀元前400年頃まで続いたメソアメリカ文明の最初の文明であることから、マヤ文明の母体となったといういわれ方がされてきた。ちなみに、オルメカ文明に端を発するメソアメリカ文明は旧大陸と交流がない状態で独自に1次文明を築いている。また、インカ帝国やナスカなどのアンデス文明も1次文明だ。
確かに、祭祀建造物などのように、マヤ文明はオルメカ文明から影響を受けた美術・建築様式などが見られるのも事実だ。しかし、オルメカ文明の大きな特徴の1つに「巨石人頭像」(画像41)と呼ばれる巨大な顔の石像があるのだが、これはマヤ文明には見られない。
もしオルメカ文明の人々が移住してきてマヤ文明を作り上げたのだとしたら、非常に大きな特徴なのでそっくりそのまま引き継がれるのではないかと推測されるが、マヤ文明は、オルメカ文明の影響を色濃く採り入れたものもあれば、採り入れたがアレンジを加えているものもあるし、採り入れていないものもある。さらには、神殿ピラミッドのように独自のものもあるというわけだ。
また、翡翠や黒曜石など、メソアメリカ文明の地域内ではグアテマラ高地でしか産出されない鉱物が出土していることから、オルメカ文明以外の地域との交流もあったことが予想された(画像40)。より複雑な社会変化の過程が示唆されるのだ。
つまり、マヤの人々はマヤ低地のほかの地域、近隣のメキシコ湾岸低地南部、メキシコのチアパス高地やグアテマラ高地などの住人たちとの地域間ネットワークに参加しており、遠隔地から重要な物資を搬入したり自分たちの地域から輸出したりするだけでなく、観念体系や美術・建築様式などの知識を交換して、マヤ文明を築き上げていったと考えられるのである。
また、今回の研究での年代決定について、つまり炭素14年代測定法に関しての米延教授による発表も行われた。同測定法は、現在の考古学で最もよく用いられる年代測定法である。ただし、この年代値は、そのままでは人類史の年代(暦年代)とは一致しないため、IntCalと呼ばれる大気中炭素14濃度の標準変動曲線を用いた較正が必要だ(画像42)。
現在、IntCalは2009年版が最新であり(IntCal09)、今回の研究成果ではこれが使用された。次期バージョンが、冒頭で述べた水月湖の堆積物によるもので、これはIntCal12もしくは13となると思われるが、この6月から利用が可能になる。ただし、今回の調査対象は、IntCal09で間に合う範囲なので、次期バージョンが導入されても、特に今回の測定結果から変わることはないそうである。
また、考古遺物の炭素14年代測定では留意すべき点がいくつかあるという。1つは、測定に関してで、試料の化学処理が適切になされ、できるだけ小さな誤差で14C年代が得られていることが必要という点だ。
今回の研究では日本のパレオ・ラボ、米国・アリゾナ大学AMSlaboratory、ポーランド・PoznanRadiocarbonLaboratoryに加速器質量分析法(AMS)による年代測定を依頼し、生炭素14年代値が得られている。さらに、猪俣教授が1970代以降の既存データを収集、当時の測定技術や試料の種類に関して検討を加え、結果的に1980年代以降の既存データを分析に加えたとした。
2つ目は、試料の環境情報・生物学的情報について。貝殻・魚骨など海洋・河川などが由来の試料では年代にずれが生じるという。現代の試料を用いた基礎研究から、中低緯度地域の海洋試料ではこのずれは約400年とされるが、地域差・時代差に関する知見が十分ではない。
また魚類を主食としたヒトの骨では、年代が古くなることが指摘されている(食物連鎖の影響)。そのため、考古分野の炭素14年代測定では陸生植物由来の試料が好適とされるが、老齢樹木の中心部や転用された古材のように、使われた時代(=本来の考古年代)と明らかなずれが生じる「古材効果」の可能性がある。例えば、樹齢1000年の古木が建築材として使われたとした場合、表皮に近い部分と、中心部では、1000年近い差が出てしまうということだ。
それらを防ぐため、今回の測定では魚骨・人骨試料が対象から外され、陸生試料のみに絞られた形である。ただし古材効果は避けられないため(測定してみないとわからない)、多数の試料を測定することで考古学的文脈としての適否を客観的に判断できるようにした。
つまり、ほかと比較した場合、古材効果が出ているものは、平均からとても離れて古い測定値が出るので、ほかの試料が多いほど、古材効果のある試料を外せるというわけだ(画像43)。また、古材効果が想定される年代値についてもそのまま公表されている。
そして3つ目は、考古学的情報についてだ。遺構の考古学的層序、碑文記録などの情報が豊富に得られることが望ましいという。つまり、近年の炭素14年代測定の誤差は±20~30年程度と非常に小さくなっているものの、較正の結果、数100年という大きな年代幅となってしまうことがあるため、それを補うためにも層位的な発掘調査は重要なのだ。また同一遺構でも後代の工事による試料の移動、貝塚などでは複数時代区分の遺物の混在が想定され、こうしたものは自然科学的知見では排除できないという難しさがある。
今回の研究では、研究の初期から考古チームと自然科学チームが協調して計画を推進してきているのが特徴だ。こうした共同作業は、新学術領域研究「環太平洋の環境文明史」のほか地域(アンデス、琉球など)の考古調査でも同様に行われている。セイバル遺跡では多数の年代値と詳細な発掘情報を組み合わせ、「ベイズ推定」という統計的な手法で遺構の層位・年代の関係をモデル化することで、マヤ文明のセイバル遺跡の高精度な編年を確立することに成功したというわけだ。
それから今回の会見では、青山教授から発掘調査の裏話的な話も語られた。例えば、発掘に従事した現地の作業員の人たちもマヤ人なのだが、ケクチ語を話すケクチ・マヤ人といわれる人たちで、スペイン語が通じるので現地の人たちとはスペイン語で話し、また発掘チームの研究者たちは多国籍なので英語で話してという具合だったという(画像44)。
また、遺跡の発掘現場を空撮したかのようなアングルの写真が猪俣教授によって提供されているのだが、実は木登りして撮影しており、ついたあだ名が「スパイダーマン」だとか(画像45・46)。
画像45。1歩間違えたら転落死もありそうな高さまで上る猪俣教授。改めていうが、調査団の団長である |
画像46。スパイディ猪俣教授は素晴らしいアングルの写真をいくつも撮影しており、これもその1つ。普通、足場を組むなり専用の車両などを使わないと、この角度からは無理 |
青山教授は1986年から、また猪俣教授は1983年からそれぞれメソアメリカ文明の研究を続けてきており、いつかは2人で発掘調査をしようということを誓って、それを実現させたのが今回のセイバル遺跡の発掘調査だそうで、セイバル遺跡は日本人メソアメリカ文明研究者にとってのドリームサイトであるという。さらに青山教授はこれまでの海外の研究活動の最中に奥方を得たなんていうのろけ話も(笑)。なお、まだ使用していない画像があるので、残りも紹介しておく(画像47~53)。
画像51。権力者の胸飾り。マヤ文明のほかの遺跡の出土品に描かれている権力者の図柄の中に同じ形の胸飾りが見られる |
画像52。先古典期中期後半(紀元前7世紀頃)の住居跡。後ろに立っている2人は、左が青山教授で右が猪俣教授 |
というわけで、あまり扱う機会のない人文科学系の大成果のリポートだが、いかだっただろうか。今回の成果は、Science誌の表紙も飾る予定だ。Natureと並ぶ世界の2大科学学術誌の表紙を飾るのは、日本の多数の研究者が日々素晴らしい成果を上げているが、世界中の研究者たちとの勝負であり、なかなか成し得ない快挙である。つまり、今回の成果がいかに大きかったということがわかるわけだ。
マヤ文明というと、日本人にとっては遠い異国の地の話なので、ピンと来ないところもあるかも知れないが、宇宙や地球、さまざまな物理現象といった自然科学的な謎に迫るだけでなく、こうして過去に生きた人々のそのどう生きたかという謎を解いていくのもとてもロマンのある話である。日本の研究助成も自然科学が全般となっているのだが、こうした人文科学にもまだまだ興味深い題材があり、今回、日本が世界に貢献できたことは喜ばしいことではないだろうか。
なお青山教授によれば、まだまだ詳しくは調べられていない遺跡は数多くあり、マヤ文明の起源が紀元前1000年よりさらに遡る可能性はあるという。投げれば謎に当たるような状況といえよう。今後の進展に期待したい。