科学技術振興機構(JST)と東京大学(東大)は1月10日、サルを被験動物とした実験により、記憶を思い出す時の信号の生成と伝播を担う神経回路を発見したと共同で発表した。
成果は、東大大学院 医学系研究科の宮下保司教授、同・平林敏行助教らの研究グループによるもの。研究はJST課題達成型基礎研究の一環として行われ、詳細な内容は米国東部時間1月9日付けで米国科学誌「Neuron」オンライン速報版に掲載された。
大脳の後方側面を覆う「側頭葉」は、視覚や聴覚などの認識や、物体についての記憶を司る脳の領域であり、これまでに記憶の定着および思い出し(想起)時に活動する神経細胞が知られている。
しかし、これらの記憶神経細胞がどのように働くのか、その仕組みを解明しようとするこれまでの研究アプローチは、物事を記憶する時の個々の神経細胞の活動を測る方法か、または逆に神経細胞の集団を1つの機能単位として、その活動をマクロ的に測定する方法のどちらかであり、個々の神経細胞同士が、互いにどのような回路を形成することによって記憶想起信号を生成しているかについてはわかっていなかった。
このように、記憶想起のプロセスを神経回路の動作として理解することは、脳の働き方の原理を理解することであり、脳科学における数10年にわたる課題になっているのである。
今回の研究では、サルに「対連合記憶課題」(画像1)を課し、視覚からの長期的な記憶を想起する時のさまざまな神経細胞の活動の記録・解析が同時に行われた。対連合記憶課題とは、「鉛筆」と「消しゴム」のように対となる事柄や図形をあらかじめ連想によって記憶し、特定の図形を見た時に、それと対になっている図形を連想によって思い出す課題だ。
画像1が対連合記憶課題。サルがレバーを引くと、モニターに手がかり図形が提示され、想起期間の後、選択図形が提示される。サルが手がかり図形の対図形(ここでは、左下の選択図形)を正しく選べば正解だ。サルは6つの図形対(右)を学習した。
課題を遂行中のサルの神経細胞群の活動の記録には、多チャンネル電極を用いた。これらの神経活動を解析することにより、サルが実際に記憶を想起している時の神経回路の作動を調べることができたのである。
その中で今回の研究では、提示された特定の手がかり図形に応答し、その情報を保持する「手がかり図形保持ニューロン」と、特定の対図形の想起時に活動する「対図形想起ニューロン」に着目し、想起期間におけるそれらのニューロン間の信号伝達を解析したというわけだ(画像2)。
画像2は、側頭葉の対連合記憶ニューロン。対連合記憶課題を学習したサルの側頭葉から、提示された特定の手がかり図形の情報を保持する手がかり図形保持ニューロンと、特定の対図形を想起する時に活動する対図形想起ニューロンを記録。今回の研究では、想起期間におけるこれらのニューロン間の信号伝達が解析された。
解析には、経済学において広く用いられてい「るGranger因果性解析」が用いられた。これは、あるニューロンAの活動が、同時に記録している別のニューロンBの活動が原因となっていると予測される度合いを計算することによって、ニューロン間の信号伝達の強さを推定する方法だ。
解析の結果、手がかり図形を見たサルが対となる図形を想起している時に、対図形想起ニューロンにおいて記憶想起信号が生成されるのに先立って、手がかり図形保持ニューロンから対図形想起ニューロンへと神経信号が伝達することがわかった(画像3~6)。
このことから、このニューロン間信号伝達が原因となって、対図形想起ニューロンにおいて記憶想起信号が生成されることが示唆されたのである。
なお画像3と4は、対連合記憶課題を遂行中のサルから同時記録された、手がかり図形保持ニューロン(ニューロン1)と対図形想起ニューロン(ニューロン2)の例。
画像3(左)は、各ニューロンがほかのニューロンに情報を伝達する(発火)頻度の経時変化を表したグラフ。ニューロン1は特定の手がかり図形に応答し、その情報を保持する手がかり図形保持ニューロン、ニューロン2は対図形の想起時に活動する対図形想起ニューロンだ。
画像4は、ニューロン1と2の最適刺激を用いた際のGranger因果性解析の結果を表したもの。左は、ニューロン1から2に向かう信号伝達、右はその逆向きの信号伝達の強さの時間変化を色で表している(赤い方が強い信号)。
縦軸はGranger因果性が見られた周波数を表しており、白線は左から手がかり図形提示開始と終了の時間だ。手がかり図形提示終了後の想起期間中に、手がかり図形保持ニューロン(ニューロン1)から対図形想起ニューロン(ニューロン2)へ神経信号が伝達されていることがわかる。
対連合記憶課題を遂行中のサルから同時記録された、手がかり図形保持ニューロン(ニューロン1)と対図形想起ニューロン(ニューロン2)の例。画像3(左)は、は、各ニューロンがほかのニューロンに情報を伝達する(発火)頻度の経時変化を表したグラフ。画像4は、ニューロン1と2の最適刺激を用いた際のGranger因果性解析の結果を表したもの |
記録されたすべての手がかり図形保持ニューロンと対図形想起ニューロンの間の信号伝達。記録されたニューロン群全体についてのGranger因果性解析の結果だ。ニューロン群全体で、想起期間において手がかり図形保持ニューロンから対図形想起ニューロンへと情報が伝達されることがわかった。画像5(左)は手がかり図形保持ニューロンのもので、画像6は対図形想起ニューロンのもの |
次に、手がかり図形保持ニューロンから対図形想起ニューロンへの信号伝達の前後において、同時に記録されたもう1つの対図形想起ニューロンへの信号伝達の解析が行われた。
すると、手がかり図形保持ニューロンから対図形想起ニューロンへの信号伝達が引き金となって、その信号がさらに次の対想起ニューロンへと伝播していくことが明らかになった(画像7)。
画像7は、手がかり図形保持ニューロンから対図形想起ニューロンへの信号伝達が引き金となって、さらに次の対図形想起ニューロンへと信号が伝播する様子。
1つの手がかり図形保持ニューロン(CH)と2つの対図形想起ニューロン(PR1とPR2)から同時記録を行い、CHからPR1への信号伝達の前後におけるPR1とPR2の間の信号伝達の解析結果だ。
上はCHからPR1への伝達の前後におけるPR1からPR2への信号伝達を表し、下はそれと同じ時間における逆向きの信号伝達(PR2→PR1)を表したものである。白の点線は、CHからPR1への信号伝達が見られたタイミングを表す。
手がかり図形保持ニューロンから対図形想起ニューロンへの信号伝達(CH→PR1)がきっかけとなって、さらに次の対図形想起ニューロンへと信号が伝播していく(PR1→PR2)ことがわかった。
これは、手がかり図形保持ニューロンからの信号伝達によって、対図形想起ニューロンで生成された記憶想起信号が、さらに増幅されていく過程を反映していると考えられる。これらの結果から、霊長類の側頭葉において、記憶の想起を司る神経回路とその動作が明らかになった(画像8)。
画像8は、側頭葉における対連合記憶の想起神経回路のモデル。手がかり図形が提示されると、手がかり図形保持ニューロン(水色)が活動し、提示終了後もその情報を保持する。その後、対図形想起ニューロン(ピンク)へと神経信号が伝達し、それがさらに次の対図形想起ニューロンへと伝播。
これにより、対図形想起ニューロンの活動が高まり、神経回路の表す情報が、手がかり図形から対図形へと変換され、対図形の想起に至ると考えられる。
今回の研究により、ヒトを含む霊長類が物体についての記憶を想起する際に用いられる側頭葉の神経回路と、その動作が明らかにされたこととなった。研究グループは、これによって、記憶想起の神経メカニズムの理解がより深まるだけでなく、あるタイプの記憶障害の起源についての研究や、連想型データベースの高速化・効率化などさまざまな応用にもつながることが期待されるとしている。