科学技術振興機構(JST)と藤田保健衛生大学は1月4日、抗うつ薬「フルオキセチン」の投与によって正常な成体マウスの大脳皮質の神経細胞を増やすことに成功したと共同で発表した。

成果は、藤田保健衛生大 総合医科学研究所の宮川剛教授、同・大平耕司講師らの研究グループによるもの。研究はJST課題達成型基礎研究の一環として行われ、詳細な内容は米国東部時間1月4日付けで米国科学誌「Neuropsychopharmacology」オンライン速報版に掲載された。

成熟したほ乳類の脳は、いったん損傷を受けるとほとんど再生せず、機能的に障害が残ったままになってしまう。現在では、脳を再生し機能的に回復へと導く手法として、主に2つの方策が考えられている。

1つは、ES細胞やiPS細胞を利用して、体外で神経細胞を増殖・分化させた後、脳へ移植する方法だ。しかし、この方法は、それらの未分化な細胞を大脳皮質に存在する多様な神経細胞に分化させる必要があり、現状では技術的に困難である。また、移植した細胞ががん化する可能性もあり、体外から細胞移植することによって脳損傷による疾患を治療する方法は未解決の問題も多く、いまだ開発途上だ。

もう1つは、もともと脳内にある「神経幹細胞」や「神経前駆細胞(L1-INP細胞)」を活性化させ、神経細胞に分化させる方法だ。この治療法では、対象となる脳の領域に存在する神経幹細胞や神経前駆細胞の増殖や分化を制御できることが必須となる。なお、成体ラットの大脳皮質でL1-INP細胞が存在することを世界に先駆けて発見したのが、今回の研究グループだ。

また研究グループは、通常、成体の大脳皮質では新たに神経細胞を産生することはないが、L1-INP細胞は脳虚血により脳が障害を受けると、新たに抑制性神経細胞を産出することも発見している。

従って、薬物などの人為的な方法により、L1-INP細胞の増殖や分化を制御できれば、(1)脳卒中時の神経活動が過度に興奮することによる神経細胞死の抑制、(2)大脳皮質の抑制性神経細胞が関与する精神・神経疾患の予防・治療法の開発、の2つに応用できる可能性がある。しかし大脳皮質が正常な状態において、L1-INP細胞の神経新生を制御できる方法はまったく明らかにされていなかった。

そこで研究グループは今回、成体マウスに世界で最もよく使われている抗うつ薬の1つである「フルオキセチン」を投与し、組織学的手法を用いて大脳皮質に存在するL1-INP細胞の増殖や分化について解析を実施した次第だ。

まず、L1-INP細胞の増殖についての検討が行われたところ、L1-INP細胞の増加は、大脳皮質のほとんどすべての領域(前頭皮質、運動皮質、体性感覚皮質、視覚皮質)で生じていることが判明した(画像1・2)。

フルオキセチンの投与によってL1-INP細胞が増加した証拠。画像1(左)は、対照マウスとフルオキセチン処理マウスの大脳皮質におけるL1-INP細胞の顕微鏡写真。L1-INP細胞は、抑制性神経伝達物質「GABA」の合成酵素「GAD67」と細胞分裂マーカーの2重で染色される。画像2は、L1-INP細胞が今回解析したすべての脳領域で、フルオキセチン処理によって増加していたことを示したグラフ

さらに、L1-INP細胞による新しい神経細胞の産生について調べたところ、新生した神経細胞の約80%は、抑制性神経伝達物質GABAに陽性の抑制性神経細胞であることが明らかとなった(画像3・4)。

L1-INP細胞から生まれた細胞は抑制性神経細胞であった。画像3(左):新しい神経細胞の約80%は、抑制性神経伝達物質であるGABAを発現していた。画像4:新しい神経細胞の数は、フルオキセチン処理後1週間で、対照の約19倍に増加していた。また、新しい神経細胞の推定値は、大脳皮質の全抑制性神経細胞の約2%に相当する

従って、フルオキセチンの投与によって、成体の大脳皮質ではL1-INP細胞が増殖するだけではなく、L1-INP細胞によって新しい抑制性神経細胞の産生が促進されることがわかったのである。この結果は、健常な成体の大脳皮質で薬により神経細胞を増やすことができることを示した世界で初めての成果だという。

次に、新しく産生された神経細胞の機能についての解析が行われた。新しい神経細胞が抑制性であることから、脳虚血の時に引き起こされる神経細胞死が、新しい神経細胞によって抑制されるのではないかという予想である。

そこで、フルオキセチンを投与する期間中、大脳皮質の片側の半球には、細胞分裂を抑える薬物を投与してL1-INP細胞が細胞分裂を起こさないように施され、もう片側の半球には対照として生理的食塩水が投与された。

その後にマウスに脳虚血を起こすと、L1-INP細胞の細胞分裂を抑えた半球と比較して、L1-INP細胞から新しい神経細胞が増加した半球では、神経細胞死が抑制されることが見出されたのである(画像5・6)。

画像5(左)は、細胞死のマーカーである「Active caspase-3」(紫)と新しい神経細胞(緑:右の写真中の矢頭。新しい神経細胞はあらかじめ蛍光タンパク質で標識)の2重染色が行われた大脳皮質の写真。

左の大脳皮質の半球には、細胞分裂を抑制する薬物である「Ara-C」(投与部位が可視化できるように色素を同時に投与)、右の大脳皮質の半球には対照として生理食塩水(PBS)が投与されている。

従って、マウスはフルオキセチン処理されても、Ara-C投与半球では、L1-INP細胞の神経新生が抑えられ、PBS投与半球では、L1-INP細胞の神経新生は促進されている。

画像6は、Active caspase-3を定量化した結果、Ara-Cの投与によりL1-INP細胞の神経新生が抑えられると神経細胞死が抑えられなかったが、L1-INP細胞の神経新生が促進された半球では、神経細胞死が有意に抑制されたことを明らかにした結果をまとめたグラフ。

新しい神経細胞は脳虚血での神経細胞死を抑制するその証拠。画像5(左)は、細胞死のマーカーであるActive caspase-3(紫)と新しい神経細胞(緑:右の写真中の矢頭。新しい神経細胞はあらかじめ蛍光タンパク質で標識)の2重染色が行われた大脳皮質の写真。画像6は、L1-INP細胞の神経新生の抑制された場合と促進された場合の差を表したグラフ

さらに、個々の神経細胞に注目すると、新しく産生された抑制性神経細胞の細胞体から20~110μm以内に存在する神経細胞の細胞死も抑制されていることが発見された(画像7~9)。

ちなみにこの結果は、成体の大脳皮質で新しく産生された細胞が神経細胞としての機能を持っていることを実験的に証明したものであり、学術的に大きな進歩といえる。

画像7。新しい神経細胞の周辺では神経細胞死が抑制される。新しい神経細胞(B)と対照細胞(A)における細胞死のマーカーActive caspase-3と細胞核の三重染色の写真。新しい神経細胞はあらかじめ蛍光タンパク質で標識している

画像8(左)は新しい神経細胞と対照細胞の細胞体を中心に同心円を描いて、同じ円上に存在するActive caspase-3陽性細胞数を定量したグラフ。新しい神経細胞の周辺20~110μm内で神経細胞死が、対照細胞と比較して、有意に減少していた。画像9は、画像8の定量で用いた同じ細胞の細胞体を中心にして、細胞の核の分布を定量したグラフ。新しい神経細胞と対照細胞の両方で、ほぼ同じように均一に分布していることが明らかとなり、画像8の解析で見られた、新しい神経細胞の周辺でのActive caspase-3陽性細胞の減少は、新しい神経細胞が脳虚血から神経細胞を保護していることを示唆している

今回の研究によって、健常な成体マウスの大脳皮質において薬で神経細胞を増やすことが可能であることが示され、さらに新しい神経細胞によって脳虚血時の神経細胞死が抑制されることもわかった。

近年統合失調症やうつ病などの一部の精神疾患について、患者の死後脳やMRIなどを用いた研究により、大脳皮質の抑制性神経細胞数や抑制性神経伝達物質であるGABAが減少していることが徐々に明らかになってきている。

以上のことより、今後、L1-INP細胞の増殖・分化の制御の仕組みをさらに解明することで、大脳皮質の損傷からの神経細胞の保護・再生や大脳皮質の抑制性神経細胞が関係する精神・神経疾患に対する新しい予防・治療法の開発や創薬が期待できると、研究グループはコメントしている。

画像10。今回の研究のまとめ