SMMLabでは、マスメディアの代表であるテレビが、今後ソーシャルメディアとどのように影響しあうのか、企業のマーケティング活動をどう変えていくのかに注目し、「ソーシャルテレビ推進会議」の公式サイト「ソーシャルテレビラボ」からの寄稿記事をご紹介しています。
ぼくたちはどうして消費に冷めてしまったのだろう(あるいは、なぜあんなに消費が楽しかったのだろう)
テレビCMが効かなくなってきた、という声がけっこう聞こえてくる。
どうして効かなくなってきたのだろう。と考えると、気づいてみれば自分自身もそうじゃないかと思った。ぼくだってそもそも、最近テレビCMを見て、商品に興味を持つことはほとんどない。Apple製品くらいじゃないだろうか。
テレビCMの仕組みは、よく考えると矛盾を背負っている気がする。人はテレビ番組を観るためにテレビをつける。よし、CM観るぞ!といってテレビをつける人はあまりいないだろう。でもテレビは番組を観ることではなく、CMを観てもらうことに経済価値がある。番組はCMの”エサ”みたいなものだ。広告そのものがそうなのだけど、テレビCMの場合はそういう広告の矛盾が凝縮されている。新聞や雑誌はまだ”購読料”もある。駅貼りポスターは歩いている時に目に入るもので、わざわざスイッチオンするものではない。テレビはわざわざスイッチを入れさせたりチャンネルを選んだりさせるのだけど、番組の間に経済価値がある。
かなり奇妙な構造だと思う。
ぼくたちはこれまで、番組を観るためにテレビを視聴し、その”間”に、ある意味図々しく入ってくるCMをけっこう前向きに受けとめていた。へー、そんな商品あるんだ。買っちゃおうかな!今度スーパー行った時、ちょっと手に取ってみるかな。そういう気持ちに素直になったものだ。
あれはどうしてかと言うと、基本的に消費に前向きだったからだ。
消費に前向きな人に対しては、観るつもりなく観てしまったCMでも効いていたのだ。けっこう効いていた。
それがどうだ、いまは。相変わらず番組を観るためにテレビをつける。CMが強引に目に入ってくる。・・・なんとも思わない。商品に興味がない。買っちゃおうかな!なんて思わない。すべて、ふーん・・・という感じだ。
いったいぼくたちはどうしちゃったんだろう?!
バブルの頃、ぼくたちはほんとうに消費が好きだった。仕事をしながら今度の週末は何を消費しようかとか、新しい彼女ができたからカッコいい消費を見せてあげようとか、いままでより格が上の消費が楽しめるようになったおれはホンモノがわかってきたのだなとか、そんな風にとらえていた。消費は豊かさの証しであるだけでなく、自分の精神性の高さの裏付けでもあり、自分のスタイルを表現する一種のツールだった。
消費が好きだったと書いたが、好きとか嫌いとかでさえなく、高校から大学あたりでPOPEYEやBRUTUSなんかに教わった行為で、現代人としては呼吸と同じようなものだった。現代人として生きるからには消費は当たり前なのだ。消費しない生活なんてありえなくなっていた。
バブルがはじけた時、いや正確に言うとバブルがはじけた数年後にあれは”バブル”という現象でそれが”はじける”という現象が起こったんだよ、と知った90年代半ばあたりで、ぼくたちはそうとう考え方を変えた、はずだった。なんだおれたち馬鹿だったよな。いや、でも当時はぼくは若者だったからあんまり関係ないかな。団塊の世代はマンションをとんとん買い替えたり、NTT株をわけもわからず買ったりしてたけど、あんなことには意味なかったよな。おれはやらなかったけど。
いま思えば、考え方を変えたのではなかった。間違った考え方をしていたらしい上の世代や、金融機関や、世の中の自分より上の方にいる人たちが考え方を変えるべきで、自分自身にはさほど反省すべき点はなかった、と思った。自分はあんなに享楽的なお金の亡者ではなかったもんな、と他人事として見ていた。
結局、バブル後の90年代から2000年代前半まで、ぼくたちは相変わらず消費に邁進してきた。無闇に高いものを買おうとしなくなっただけで、でもなんだかんだ言って消費が生活の中心にあった。スーツは伊勢丹で買うものだったしフレンチやイタリアンの店を探したしクルマは必須で外車を持つべきと思っていた。
テレビCMから放たれる新製品の情報は重要だったし素直に受けとめていた。番組の間に流れるCMをそれなりの集中力で観て、あれが欲しいしこれも欲しいと購買意欲をかき立てられていた。次の週末にはショッピングセンターに家族で行く姿を、CMを観ながら思い浮かべた。
リーマンショックがそんなぼくの消費への意欲に殴りかかってきて打ちのめされた。一発KOでしばらくリングで立ち上がれなかった。ぼーっとした頭でなんとか立ち上がったところへ、東日本大震災がとどめのアッパーカットを食らわせた。ぼくの中で消費への欲望がノックアウトされてしまった。
気がつくと、消費なんてものはどうでもよくなった。場合によっては軽蔑するようになった。
毎晩帰宅すると玄関の前にプジョーが置いてある。よりによって3000ccだ。妙にデカい。馬鹿みたいだ。毎晩家にたどり着くと、周囲に”この家の主人はこんな馬鹿な消費をしてしまったマヌケ野郎でーす”と言いふらしているような馬鹿なモノが置いてあるのだ。月に一二度、川崎のショッピングセンターに行く時ぐらいしか乗らないのに、”走りのいい3000ccの外車”。ホントにこの家の人、バッカじゃないのか。
もともと料理は好きだったが、週末はいつも料理するようになった。外食に連れて行くよりずっと美味いものを家族に食べさせられるからだ。伊勢丹にはもう年に一度くらいしか行かなくなったしそもそも新しい服を買うことに興味がなくなった。何か着るならユニクロで十分じゃないか。ビックリするくらい安いユニクロの価格を見てももうビックリしなくなった。
CMが効かなくなったのは消費意欲が消えうせたからだ。これは気分だが、はっきりした裏付けがある。このグラフは日本の名目GDPの推移だ。
名目GDPの推移(1980年~2012年)
このグラフは、ぼくが上に書いたことをそのまま表している。ぼくの気分はGDPの推移とほとんど連動しているのだ。バブルがはじけても他人事ととらえて消費を続けてきたぼくの気分と同じく、GDPは97年まで上昇し続けていたのだ。その後は上には向かないが、下にも向いていない。だらだらだら~っと同じ水準が続いている。
それが2008年以降、雪崩を打つように下っている。はっきりとした下り坂だ。2012年の推計値は去年と比べて少し持ち直すけど、91年と同じ水準になるそうだ。ぼくたちは二十年かけて積み上げてきたものをがらがらっと崩してしまったのだ。この二十年は結局、何の意味もなかったってことかよ!
断言するけど、下り坂は続くだろう。家電メーカーを見るまでもなく、もう一度上る要因なんてほとんどない。
下り坂にあって、CMがいままでのような効力を失うのは当然だろう。消費にシラけている時に、商品を強引に知らしめるだけでは買いたい気になるはずがない。逆に言うと、いままでは何か買いたくて仕方ない気分だったので、興味を持てば買いたくなったのだ。商品を知れば購買意欲のベースができた。いまはそうじゃない。
CMは基本的に認知しかできない。よく言われる通り、認知を稼ぐにはもっとも効果的で単価は高いけど値段だけの効果はある。それはいまもある。でももう、認知だけでは買わないのだ。お腹が空いてる人間には、何か食べ物をあげればすぐ食べたがるだろう。一方でお腹いっぱいの人には、美味しそうなものを見せるだけでは食べたいとは言わない。
ものすごく後ろ向きなことを書いているように見えるだろう。実際そうなのだけど、後ろ向きなつもりはない。現実を書いている。
それでも世の中にマーケティング活動があり、そのためのコミュニケーションが必要なら、やり方を変える必要がある。そしてテレビもそれに伴って何かを考え直すべきだろう。
そういう、続きをまた書いていくからね・・・
<ライター紹介> 境 治 (Osamu Sakai)
メディア・ストラテジスト。1987年、東京大学を卒業し、広告代理店I&S(現ISBBDO)に入社してコピーライターとなる。92年、TCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞を受賞。93年からフリーランスとなりテレビCMからポスターまで幅広く広告制作に携わる。06年、映像制作会社ロボットに経営企画室長として入社。11年7月からは株式会社ビデオプロモーションでコミュニケーションデザイン室長としてメディア開発に取り組む。
著書『テレビは生き残れるのか』
ブログ「クリエイティブビジネス論」http://www.sakaiosamu.com
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