北海道大学などで構成される研究グループは、生きた化石とも呼ばれる日本を代表する昆虫である「ムカシトンボ」の遺伝子を解析した結果、これまでに分布が知られる全ての地域(日本、中国、ネパールヒマラヤ)において遺伝的差異はごくわずかで、同一種内の変異に相当することが明らかになったと発表した。

同成果は、独ゲッティンゲン大学のThomas Hornschemeyer氏、Sebastian Busse氏、Philipp von Grumbkow氏、Susanne Hummel氏、独ゼンケンベルグ自然史博物館のDeep Narayan Shah氏、Sonja Wedmann氏、ネパールベントス協会のRam Devi Tachamo Shah氏、ラオスのJingke Li氏、ハルピン師範大学のXueping Zhang氏、、北海道大学の吉澤和徳氏らによるもので、米国Public Library of Scienceのオンライン雑誌「PLoS ONE」に掲載された。

ムカシトンボ類は現生のトンボ目の中で最も原始的な特徴を残しており、絶滅した化石トンボ類との類縁関係も示唆されることから、ジュラ紀(約1億9960万年前~1億4550万年前)の残存種と考えられている。

図1 日本産ムカシトンボ。清流での7年間の幼虫期間を経て成虫になる。体長5cm程度(写真は北海道大学農学部所蔵のもの。1899年に九州の英彦山で採集され、1913年刊の松村松年「新日本千蟲図解」の本種の図版に用いられた標本。撮影は吉澤和徳氏による)

こうした背景からムカシトンボ類は、トンボの進化を探る上で重要なグループであるほか、近年、中国東北部から報告されるまで、ムカシトンボ類は世界中で日本とヒマラヤ地域という離れ、かつ限られた場所でしか棲息が知られていなかった。

図2 現在の地形とムカシトンボの分布域(左:黒線、星印)。およびウルム氷期時の地形と推定されたムカシトンボの分布域(右:黒線以南)(出典:発表論文)

そのためムカシトンボは日本昆虫学会のシンボルマークとしても採用されるなど、日本を代表する昆虫の一種と見なされている。

図3 日本昆虫学会シンボルマーク。ムカシトンボが図案化されている(出典:昆虫学会Webサイト)

これまでは、このように起源の古いトンボが、遠く離れたごく一部の地域にのみ分布している理由として、ジュラ紀には広く分布していたムカシトンボの祖先が、日本、中国東北部およびヒマラヤのごく限られた地域でのみ、長期間隔離されて生き残ってきたためと考えられてきたが、科学的な調査を元にしたものではなかったことから、今回研究グループは分子系統学的手法を用い、トンボ類の系統関係解析を行うことで、解明をはかった。

ミトコンドリア(COII)と核(18S、28S、ITS1、ITS2) の両遺伝子を解析に含め、これまでに分布が知られる全ての地域(日本、中国、ネパールヒマラヤ)のムカシトンボ類を解析に加えて行った。ちなみに、これらの遺伝子のうち、ミトコンドリアCOIIと、核のITS1、ITS2は塩基の置換速度が速く、近縁な種や地域集団間の解析に適したマーカーとなっている。

解析の結果、日本、中国、ネパールのムカシトンボの間に、遺伝的な差異はほとんど見られなかった。この程度の遺伝的差異は、他のトンボの近縁種間の変異よりも明らかに小さく、むしろ同一種内の地域的な差異と同等程度と確認されたという。

日本、中国、ヒマラヤのムカシトンボは、現在ではそれぞれ別々の種とされているが、今回の結果からは、各地域間のムカシトンボの違いが同一種内の地域変異レベルであることが示されることから、古い時代(ジュラ紀)に広く棲息していたムカシトンボの祖先が、それぞれの地域で長期間隔離されて生き残ってきたとする従来の説では、地域間のわずかな遺伝的差異が説明出来なくなることが示された。

ムカシトンボは寒冷地に適応したトンボで、特に幼虫は水温の低い渓流(夏期16-17℃以下)でしか棲息出来ず、現在の分布もこの条件に合致した地域に限られる。一方、氷期には、現在では熱帯域にあたるより南の低地に、ムカシトンボの棲息に適した環境が広がっていたと考えられるほか、海水面の低下も起こっていたことから、大陸と日本列島は陸続きになっていたと考えられているため、今回の研究で判明したムカシトンボの地域間の遺伝的差異の小ささは、隔離分布の成立がはるかに新しいことを示したものとなると研究グループでは指摘している。

つまりムカシトンボは、約2万年前にピークを迎えた最終氷期(ウルム氷期)には、南アジアから東アジア地域にかけて広く分布する1つの集団を形成しており、そして氷期が終わり地球が温暖になるのに伴い、熱帯や温帯の多くの地域で絶滅し、日本の山地や北の地域、中国東北部、ヒマラヤ山地といった寒冷な地域に隔離され、現在の分布が形成されたと考えられるという結論に至ったと研究グループでは説明している。

なお、ムカシトンボの幼虫(ヤゴ)は冷涼な清流にしか棲息することが出来ず、そのため河川の改修やダム建設などの影響を受けやすい昆虫だ。実際ムカシトンボは、宮城県、三重県、長崎県では絶滅危惧種として扱われており、その他の多くの都道府県でも、準絶滅危惧や要注意種として扱われているため、地球の気候変動が進行すれば、生息環境への影響も懸念され、保全に十分考慮することが求められるともしている。