東京大学と科学技術振興機構(JST)は、実験とシミュレーションを用いた解析により、インスリン分泌の複数パターンの時間変化(波形)が、1つの「シグナル伝達経路」を介して多重に通信され、下流に位置する複数の分子がそれぞれ選択的に制御されることを明らかにしたと発表した。
成果は、東大 大学院理学系研究科の黒田真也教授らの研究グループによるもの。研究の詳細な内容は、米国東部時間5月24日付けで「Molecular Cell」に掲載された。
生体内におけるインスリンの分泌には、食後に一過的に分泌される追加分泌や空腹時にも微量に分泌される基礎分泌、そして15分程度の周期的分泌などがあり、血中インスリンの量は複数の時間波形成分からなることが知られている(画像1の下図左のグラフ)。
また、糖尿病の初期では追加分泌量が減少する一方で基礎分泌量が増加することや、糖尿病患者では15分周期の振動成分が欠失していることが確認済みだ。
さらに、インスリンの15分程度の周期的刺激は、一定刺激よりも肝臓からの糖新生抑制や筋肉などによる糖の取り込み促進の効果が強いことが報告されている。なお、肝臓の糖新生や筋肉の糖の取り込み制御は血糖値の制御に重要だ。
以上のように、インスリン波形の生理的重要性はいくつも報告されているが、同じインスリンの分泌にも関わらず選択的に生理作用を制御する分子メカニズムは不明であった。
細胞は限られたシグナル伝達経路を用いて外界の変化という複雑で多くの情報を処理しなくてはならない。これを達成するために、細胞は分子の組み合わせにより情報を通信するという方法を用いていることが広く知られている。
細胞外のホルモンや成長因子、栄養などの環境変化の情報は受容体などを介して細胞内に伝わっていき、最終的に細胞の応答を導く。細胞内に情報を伝える経路がシグナル伝達経路と呼ばれ、一般にリン酸化酵素などによる連鎖的な生化学反応によって構成されている。
近年、黒田教授らはこの分子の組み合わせ以外に、分子の時間変化(波形)に情報を埋め込み多重に通信処理する「時間情報コーディング」の概念を世界に先駆けて提唱してきた(画像1)。
画像1は、多重通信システムの模式図だ。ラジオでは番組の情報を電磁波の周波数や振幅に多重に埋め込む(上図の左のグラフ)。ラジオは電磁波の周波数や振幅に埋め込まれた多重の情報を分離して、番組の情報を取り出す(上図の右のグラフ)。
研究グループの研究成果でも同様に、生物も生理作用の情報をインスリンの波形に周波数や振幅に多重に埋め込み(下図の左のグラフ)、インスリンの標的臓器はインスリンの周波数や振幅に埋め込まれた多重の情報を分離して下流の応答を情報に応じて活性化すること(下図の右のグラフ)が明らかとなった。
インスリンは血糖値を下げることのできる唯一のホルモンであり、すい臓から分泌される。糖尿病との関係は非常に深く、いくつかの原因により体内のインスリンに対する応答性が低下すると糖尿病になることが知られている。
生体内におけるインスリンの分泌は食後に一過的に分泌される追加分泌や空腹時にも微量に分泌される基礎分泌、そして15分程度の周期波形からなる血中波形など、複数の時間波形成分の存在が知られている(画像1の下図の左のグラフ)。
しかし、インスリンの15分程度の周期的刺激は一定刺激よりも肝臓からの糖新生抑制や筋肉などによる糖の取り込み促進の効果が強いことや、糖尿病の初期によく観察される肝臓からの糖新生抑制は阻害されるが脂肪の合成は促進される現象など、従来の生物学・医学ではうまく説明できない矛盾があることも知られている。
黒田教授らは、インスリン作用に関するシグナル伝達経路の中心分子である「AKT」が、インスリンの複数の時間波形を多重に通信して、その下流に位置する「S6K」、「GSK3β」、「G6Pase」を選択的に制御できることを実験とシミュレーションによる解析で明らかにした(画像2)。
画像2は、AKT経路によるインスリンの多重通信システムを表した図だ。3つの血中インスリンの波形の情報は多重にAKTの時間波形に埋め込まれる(青:基礎分泌、赤:追加分泌、緑:15分の刺激)。AKTの下流のS6K、GSK3β、G6Paseは分子の制御構造や酵素の性質の違いにより、AKTに埋め込まれた多重の情報をそれぞれ選択的に取り出して応答している(矢印の太さが応答のし易さを表現している)。これにより、S6Kは追加分泌のみに、GSK3βはすべての波形に、G6Paseは追加分泌と基礎分泌に応答することができる。
ちなみにAKTとは、細胞内シグナル伝達経路の1つ。主に、細胞の増殖・成長を制御している。特に肝臓・筋肉・脂肪などのインスリンの標的細胞では、インスリン刺激により活性化され、糖や脂質の代謝、タンパク質合成を制御している仕組みだ。
またS6K、GSK3β、G6PaseはAKT経路の下流に位置するリン酸化酵素だ。S6Kはインスリン刺激によってタンパク質合成を促進し、細胞の成長を制御していると考えられている。GSK3βもインスリンの刺激を受ける形で働く。そして、グリコーゲンの蓄積を制御していると考えられている。G6Paseは糖新生を制御する中心的役割を担う分子だ。この分子は、インスリン刺激によって減少するのがほかの2つと異なる。糖新生の短期(数分程度)の制御には関わらないが、長期(数時間以上)の制御に関与する形だ。
実験によりインスリン刺激を加えた場合、同じAKTの下流分子にも関わらず、S6K、GSK3β、G6Paseの分子の時間波形は異なった(画像3)。これは、AKTの時間波形に多重に情報が埋め込まれ、3つの分子へそれぞれ選択的に伝達されていることを示唆している。
次に、これらの分子の挙動の特徴を明らかにするため、コンピュータシミュレーションを用いて実験で得られた時間波形を再現するモデルを作成した(画像3)。その結果、分子の制御構造や酵素の性質の違いにより、AKTに埋め込まれた多重の情報を下流分子がそれぞれ選択的に取り出して応答していることが明らかになったというわけだ。
画像3は、実験とシミュレーションを用いた解析(今回の研究の流れ)。(1)実験により各分子の時間波形を測定し、(2)コンピュータシミュレーションを用いて実験で得られた時間波形を再現するモデルを作成する。(3)モデルで得られた特徴を実験で検証し、(4)コンピュータシミュレーションから特徴を抽出、メカニズムを解明するという流れだ。
次に研究グループは、生体内のインスリン波形を模した刺激を与え、各分子の応答をシミュレーションと実験により確認した。その結果、S6Kは追加分泌には応答できるが基礎分泌や15分の刺激には応答できないこと、G6Paseは追加分泌や基礎分泌には応答できるが、15分の刺激には応答できないこと、さらにGSK3βはいずれの刺激にも応答できることが明らかになったのである。
これらの結果は、S6Kによるタンパク質合成は主に食後のみに、G6Paseの抑制による長期の糖新生抑制は食後や空腹時のゆっくりした変動に、GSK3βによるグリコーゲン合成は状況に応じてしっかりと応答することを示唆している(画像2)。
つまり今回の研究は、生体内におけるインスリンの複数の時間波形がAKTに埋め込まれ、AKTがこれらの情報を多重に通信することで下流の分子を選択的に制御し、インスリンの異なる生理作用が生み出されることを明らかにしたというわけだ。
今回の研究は、「分子が生物の現象を制御する」という従来の生物学の概念に加え、「分子の(活性化)波形によっても生物の現象が制御できる」という概念が提示された形である。なお、今回の研究の概念を用いることで、背景で述べたインスリン作用や糖尿病病態の一見矛盾する現象のいくつかを説明できると考えられるという。
例えば、S6Kは追加分泌のような一過的波形にのみ応答できるので、一定刺激では1回しか応答できないが、ある周期の刺激なら複数回応答できる。つまりS6Kのような制御機構が存在すると、一定刺激より周期的刺激に応答できることになるというわけだ。
従って、肝臓の糖新生抑制や筋肉の糖の取り込みなどの作用経路にS6Kのような制御機構が存在すると仮定すると、インスリンの15分程度の周期的刺激が一定刺激よりも強い作用を示すという現象を説明できる。
また、糖尿病患者では15分周期の振動成分が欠失して基礎分泌が増加することが知られているが、上記と同様に糖新生抑制がS6Kのような制御機構だと仮定すると、15分周期の振動成分が欠失するために糖新生抑制が阻害されるという仕組みだ。
一方、G6Paseのような一定刺激に応答する制御機構が脂質合成を制御していれば、基礎分泌量が増加する(一定刺激が強まる)ので脂質合成は促進される。このようにして、糖尿病の初期によく観察される、肝臓からの糖新生抑制は阻害され高血糖になるが脂肪の合成は促進され脂肪肝になるという現象を説明できるのだ。
また、インスリンのほかにも周期性を持つホルモンは数多く報告されていることから、この概念はインスリン作用に留まらず、多くのホルモン異常などの疾病にも適用できると考えられるという。
さらに黒田教授らは、刺激の時間波形によって選択的に応答が制御できるという研究結果は、持続時間や投薬回数を考慮した薬剤開発が重要であることを意味しているとした。
今後は、モデル動物などを用いて今回の研究成果を検証し、糖尿病においてより効果的な投薬治療の設計やインスリン作用のメカニズムの解明、糖尿病病態の解明、ほかのホルモン異常の疾病解明、15分程度の周期波形の生体内での作用メカニズムの解明を進め、医療の発展にも貢献していきたいとしている。