慶應義塾大学理工学部化学科の中嶋敦教授らの研究グループは3月27日、有機薄膜を塗布した金電極に、光を照射した時に起こる「光誘起電荷分離現象」をリアルタイムに高精度で観測することに成功したことを発表した。同成果は、米国科学会誌「The Journal of Physical Chemistry Letters」のオンライン速報版で近日中に公開される予定。
有機薄膜の1つである、アルカンチオールの自己集積化単分子膜(SAM膜)は、今後実用化が期待されるナノクラスター(原子や分子が集合した超微粒子)を用いた光電子デバイスに必須の絶縁中間層材料の代表例として有望視されている。この中間層は、電極とナノクラスターを接着するだけではなく、電極で発生して中間層表面に移動した光励起電子の寿命を長くして、光エネルギーを効率的に取り出すなどの重要な役割を有する。この中間層の設計には、中間層の構造を精密に制御する技術と、光励起電子の寿命の計測技術が必要であるが、これまでこうした制御・計測技術の精度が十分でなかったことから、ナノクラスター・デバイスを構築するための信頼できる指針は確立されていなかった。
今回、研究グループは、金単結晶基板の前処理や合成条件の最適化によって秩序構造を精密に制御したSAM膜を作成し、2光子光電子(2PPE)分光法によりSAM膜の励起電子の寿命を計測した。具体的には、「金+アルカンチオールSAM膜構造体」の光誘起電子励起現象を、さまざまな厚みのSAM膜について2光子分光測定法を用いて計測し、光誘起励起のメカニズムを調べるとともに、光誘起励起過程を積極的に制御する可能性を探った。
実験ではまず、金電極をアルカンチオール水溶液に浸漬して、SAM膜を形成した。SAM膜を構成するアルカンチオール分子は、分子鎖の端に硫黄原子を持ち、これがアンカーとして働いて金基板に強く結合する。この時に分子鎖が垂直に近い形で金表面上に立った構造(Stand-up構造)を取るため、分子鎖の長さを制御することで、SAM膜の厚みを制御することが可能となる。
次に、アルカンチオール分子の炭素数が10~18の範囲でさまざまな厚みのSAM膜を形成し、光電子分光測定を行った(図1)。2光子分光測定のポンプ光およびプローブ光には、エネルギーがそれぞれ4.23eV(波長293nm)、1.41eV(同880nm)の超短パルス光を用いた。光誘起電子励起現象の時間推移を調べるために、ポンプ光の照射からプローブ光の照射までの時間(遅延時間)を-0.12psから180psまで変化させながら、SAM膜表面から放出される励起電子のエネルギー分布とその強度を、光電子分光測定装置で観測した。デバイスとして実用可能な温度範囲を調べるために、実験は、室温と90K(-183℃)で行った。
実験の結果、励起電子の寿命は100ps以上あり、単分子膜(SAM膜)の高い絶縁性を実証した。
図2は、90Kにおける、ある試料の遅延時間とSAM表面から放出される励起電子のエネルギーの関係を、測定結果例として示している。励起電子の数を示す信号強度は遅延時間約4ピコ秒で最大となり、その後減衰する。また図3は、図2と同じ試料について、遅延時間と励起電子の数の関係を示している。
これらの結果から、励起電子が90Kの極低温においては約180ps、室温においても約100ps経過しても消滅しない(長い寿命を持つ)ことが明らかになった。この寿命は過去に報告された類似の構造(金属基板上の有機分子膜)についての報告例よりも、100~1000倍長い。すなわち、光照射によって金属から分離された電子は、100ps以上にわたってSAM膜上に保持されたことになる。これは、アルカンチオールSAM膜が絶縁膜としての優れた機能を持つことを示している。前記のようにアルカンチオールSAM膜は、良好な絶縁性を持つナノ薄膜として有望視されているが、今回の結果はこれを初めて実験的かつ定量的に示した。
さらに、励起電子の寿命はSAM膜の厚さによって精密制御が可能であることが分かった。図4はSAM膜の厚さと励起電子寿命の関係を示している。図4が示すように励起電子の寿命はSAM膜の厚さと良い相関がある。SAM膜の厚さはアルカンチオールの分子鎖の長さによって制御できることから、励起電子寿命すなわちSAM膜の絶縁性が化学的手法で精密に制御可能であることが分かった。これは、同研究によって初めて定量的に明らかにされた研究成果であるという。
また、同研究ではSAM膜の膜厚範囲1.2~1.9nmについて実験を行ったが、このような極めて薄いSAM膜で長い励起電子寿命を実現した例は今までになく、同研究で形成したSAM膜が極めて高い秩序構造を持っていることを意味している。これにより、ナノクラスター・デバイス作成技術の確立に向けて、重要な基盤技術の1つが確立されたと言える。
今回の研究成果は、有機薄膜中の励起電子の挙動を初めて定量的に明らかにしただけではなく、化学的に精密に制御するための方法論の確立に道を開く。デバイスとしての光学的、電磁気的などのさまざまな機能(例えば、太陽電池の光エネルギーから電気エネルギーへの変換機能)を高効率化する可能性を示しており、ナノクラスターを太陽電池や波長変換素子、光センサなどの新しいデバイスに応用・展開するための基盤となる、重要な技術的指針を提供する。また、あらゆる薄膜の光誘起電荷分離現象を理解するための手がかりとなる。
今後は、同成果に基づいて、アルカンチオールを含む薄膜材料の分子修飾による新しい機能の付加や、種々のナノクラスターとの組み合わせなどを工夫することによって、太陽電池や波長変換素子、光トランジスタ、光センサなどの新たなナノクラスター・デバイス開発を加速していく。