東京大学(東大)大学院総合文化研究科の岡ノ谷一夫 教授と、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業 ERATO型研究「岡ノ谷情動情報プロジェクト」の久保賢太 研究員らの研究グループは、基本情動の1つである「怒り」のメカニズムの研究から、謝罪が有効なのは「怒り」の持つ「攻撃性」の側面であって、「不快感」には有効ではない、ということを明らかにした。同成果は、同プロジェクトの情動インタフェースグループのグループリーダーである名古屋大学 大学院情報科学研究科の川合伸幸 准教授との共同研究として行われ、2012年3月22日(米国東部時間)発行のオンライン科学誌「PLoS ONE」に掲載された。
「怒り」はコミュニケーションの大きな阻害要因の1つであり、怒りをいかに鎮めるか(抑制するか)は、コミュニケーションを円滑化する上で重要と言え、ビジネスシーンでは、「アンガーマネジメント」が1つの重要なテーマとなっている。
これまで、人の怒り状態とは、覚醒状態が高く不快な状態であると言われてきたが、近年、怒りは動機づけの視点から解釈されるようになってきており、自身にとって望ましくない結果や相手が生じた時、それを変えようと相手に攻撃や介入をしようとする強い「接近の動機づけ」を持つ情動であることが明らかにされてきた。
人は怒りという情動状態になることで、自律神経系反応、すなわち心拍数や汗の増大、皮膚温の上昇などの変化が生じることが分かっている。また、接近の動機づけを持つ場合には、左前頭部の脳活動を増大させ、右前頭部では減少させるという、脳活動が左右で不均衡な活動状態となることが報告されている。
怒りは謝罪によって抑制できると一般的に考えられているとおり、実験的にも謝罪が主観的な怒りを抑制するという結果が過去に示されているほか、謝罪が怒りに伴う自律神経系反応の変化を早く回復するという報告もあり、怒り反応の指標を用いて、シンプルな怒り抑制手続きの検討として、侮辱的なコメントを受ける時、直座の姿勢で受ける場合に比べ、仰向けの体勢で受けると、怒りを示す左右前頭部活動の不均衡が抑制されることなども示されていた。
しかし、謝罪が抑制するのは、怒りという強い情動反応が持つどの側面なのか、さらに怒りに関連する中枢神経系や自律神経系反応が同じ側面を反映しているのか、あるいは別の側面を反映しているのか、といった指標間の関連性を検討した研究はこれまで行われておらず、「謝罪で怒りがやわらげられる」ことが現象論的には理解されていたものの、そのメカニズムは科学的に検証されてはいなかった。
今回の研究では、怒り反応と謝罪による抑制を「中枢神経系反応」、「自律神経系反応」と「心理反応」の3指標を用いて検討した(怒りの喚起には、先行研究と同様の侮辱コメントを用いた)。
実際の実験では、怒りを喚起する侮辱コメントにシンプルな謝罪文が添えられている「謝罪群」と、謝罪が無い「怒り群」に対する中枢・自律・主観指標で得られた反応を、侮辱の前後で比較を行った。
参加者は48名(平均年齢20.5歳、男性24名、全員右利き)で、参加者の怒りを喚起するため、本来の目的を告げずに、「別室の参加者(実際には参加しない)と社会的な問題に対する意見の交換と、自分の意見に対する評価を受ける」という偽の実験に参加してもらうことを説明。被験者には、生理反応測定機器を装着して、2分間安静状態の生理反応を測定し、測定直後に心理反応として心理テストの質問紙に回答させた後、参加者に社会的な問題(飲酒年齢の引き下げなど)に対する自身の意見について文章を10分間作成させ、作成後、別の参加者が作成した(という前提で実際には予め準備しておいた)文章に対する評価を5分間で行わせた。
文章の評価には評価書を用い、6項目(作者の知能、興味、親近感、文章の論理性など)を9段階(1:低い-9:高い)で評定させ、その下部に意見文章に対するコメントを記入させた。
評価の後、この参加者の文章に対する評価書(別の参加者による評価だと参加者は思っている)を渡すが、評価書にはわざと低く評点(作者の知能4点など)し、さらに「大学生が書いた文章とは思えません。この人には学校で一生懸命勉強してもらいたいです」というコメントを記載、怒り群ではこのコメントの最後に「以上がコメントです」、謝罪群では「こんなコメントをしてすみません」という一文をつけ、実験者の合図により参加者に評価書を黙読させた。
評価のフィードバックは3分間で、その中間の2分間の生理反応を測定し、さらに心理反応として主観指標による評定(心理テスト)を行った。なお、これらの測定において、生理指標としては中枢神経系反応である「左右の前頭側頭部(F7、F8)におけるα波パワ値」と、自律神経系反応である「心拍」、「皮膚電気反応(汗)」を記録し、主観指標(主観尺度)としては「日本語版快・不快尺度(PANAS)」と「状態怒り尺度(STAXI)日本語版」を評定させた。
この実験の結果、怒り群では、怒り喚起後の左前頭部のα波パワ値が右前頭部に比べて有意に減少し、怒り反応が認められたものの、謝罪群では怒り喚起後のα波パワ値に左右差は認められなかった。
また心拍では、怒り群では侮辱後で心拍数が有意に増大したことに対し、謝罪群では侮辱による増大は認められなかった。一方、皮膚電気反応では両群に差が出なかったという。
主観指標では、STAXIの評定において、怒り群は侮辱前に比べ、侮辱を受けた後の得点で怒り評点が有意に高かったが、謝罪条件では侮辱の前後による評点の差は認められず、さらにPANASでは、怒り/謝罪両条件で、侮辱による不快の評点の上昇が認められ、謝罪の有無による、不快評点の抑制は認められなかった。
表1 「快・不快尺度(PANAS)」(日本語版)と「状態攻撃性尺度(STAXI)」(日本語版)の結果。謝罪の効果は攻撃状態を反映する心理尺度にのみ認められ、不快な気分状態を反映する心理尺度には認められなかった |
これらの実験結果から、まず、全ての指標において謝罪群で怒りの抑制が確認された。すなわち、シンプルな謝罪文を一文添えることで怒りが抑制できることを、中枢、自律、主観の3指標で同時に観察することに成功した。中枢神経系反応においては左前頭部の活動を抑制し、自律神経系では心拍のみに謝罪の効果が認められた。主観指標については、攻撃性に関連するSTAXI評定結果から怒りが抑制されたことが示され、一方不快感を示すPANAS評定結果では謝罪の効果は認められなかった 。
この3指標の結果を総合的に検討した結果、謝罪が怒りの不快感の側面ではなく、強い接近の動機づけを抑制したということが判明した。また、古くから怒りを反映すると言われていた心拍反応と皮膚電気反応では、謝罪による反応の抑制が指標間で異なっており、心拍反応が攻撃性、皮膚電気反応が不快感と関連づけられる可能性が示されたことから、これまで示されていた怒りを反映する生理的・主観的反応は、相手に攻撃しようとする接近の動機づけを反映する指標と、それ以外の不快感などを表す情動などを反映する指標に分けられ、情動の諸成分をより客観的に評価できる可能性が示されたこととなった。
なお、研究グループでは今回の研究成果について、社会的相互作用における生理的基盤を明らかにする研究につながっていくものとの期待を示すほか、怒り状態にある人が示す生理的反応について、謝罪に影響されるものと、そうではないものを示したことは、これまで考えられていた情動状態と生理反応の対応関係に新たな視点をもたらすものであり、伝統的な情動に対する生理学的研究を発展させる研究だと言えるとしている。
今後、怒りを含む情動の生理と心理の関係を解明していくことで、インターネットなどでの非対面コミュニケーション場面に情動の情報を加えることが可能となり、非対面時のコミュニケーションが円滑となるよう、既存の機器に付加可能な情動インタフェースの開発などに結びつくことも期待できるという。