理化学研究所(理研)は3月1日、個人の気分をタッチパネルなどで簡単に入力できるシステム「KOKOROスケール」を開発したと発表した。開発は、理研分子イメージング科学研究センター細胞機能イメージング研究チームの片岡洋祐チームリーダーと、大阪産業創造館(財団法人大阪市都市型産業振興センター)の共同研究によるものである。
行政サービスや企業の商品・サービスは、その開発過程で事前にアンケートなどを実施し、使用感などをモニターすることが一般的だ。しかし、人々の気分や心地は1日の間に刻々と変化し、主観的な感想にもその時々の気分や環境が影響しやすいといった問題がある。さらに、商品の使用やサービスの享受は必ずしも大きな心理効果をもたらすものばかりではないため、微妙な変化をとらえる工夫も必要とされる具合だ。
また近年、疲労や抑うつ気分、意欲に関する脳科学研究が進展し、心理的な変化を定量的なデータとして扱う必要性が増している。しかし、従来の心理学調査票は設問に対する記述や選択肢で回答していく方式のものが多く、数分ごと、数時間ごとに調査することが難しく、「こころの動き」の把握ができなかった。
さらに調査票に自由に記述できる場合でも直観的な感覚をそのまま表記しづらく、言葉の選択肢(ない・ときどきある・よくある、など)で回答する場合も微妙な感覚の差を数値化できないため、数理学的統計計算に不向きだったのである。
そこで研究グループは、2次元空間の中で安心感と不安感を横軸、ワクワク感とイライラ感を縦軸とした2軸の気分尺度として設定した4象限マトリクスを用いた「KOKOROスケール」を開発した。4象限マトリクスというのは、いわゆる数学の方程式などの直線や放物線を表すxy座標グラフでお馴染みのもので、それぞれの軸が交わる中心点は0で、それぞれ-100から+100までの目盛りが振られている。
被験者は、数分ごとまたは数時間ごとにその時の気分を示す位置に点を打ったり、さらに点と点の間の気分変化を直線または曲線で表現できたりする仕組みだ。回答に選択肢や記述など言語を使用せず、直観的な感覚を「KOKOROスケール」上に表現することができるため、微妙な感覚の差を簡単に数値化できるというわけである。
研究グループは、花王の協力のもと、東京在住の主婦(45~55歳)7人に紙媒体の「KOKOROスケール」を配布し、2011年2月8日から3月24日にかけて6週間にわたる気分変化を毎日、起床時・12時・13時・18時・就寝時に入力を依頼した(ただし調査票回収日の2月22日、3月9、10日を除き、またデータ解析は個人名を匿名化した上で実施)。
調査5週目の3月11日に東日本大震災が発生し、被験者は直接の被災者ではなかったが、連日の震災関連報道や計画的停電などが与える気分への影響をデータとして取得することにも成功したのである。
まず震災前の平常時(2月8日から3月8日)では、7人の主婦は平均して起床時に小さいながら不安感を持っていたが、その後、昼が近づくにしたがって不安感が低下し、ワクワク感が上昇する傾向があることがわかった。
しかし、夕方には一時ワクワク感が低下し、その後、就寝時へ向けて安心感とワクワク感が回復・増大するといった特徴的な変化を示すことも判明(画像1)。こうした特徴は震災前の4週間連続して見られた。
画像1は、2月23日から3月8日までの2週間にわたって取得した定時データを被験者7人で平均し、KOKOROスケール上に14日分の点として記したものだ。前述したように、起床時の小さい不安感や、就寝時のワクワク感、安心感などの傾向を読み取ることができる。なお縦軸のワクワク度・イライラ度の目盛りについては、今回の調査では50以上および-50以下の入力がなかったことから、省略して作図された。
一方、東日本大震災が発生した3月11日から3月24日までに取得した被験者全員のデータを平均してみると、平常時のデータでは見られなかった急激な安心感の喪失と不安感の増大、さらにワクワク感の喪失とイライラ感の増大が確認された。
そうした気分の落ち込みは、震災発生直後をピークとし、その後徐々に回復している。しかし、調査終了日にあたる震災発生2週間後で13時など未だ十分な回復が得られていない時間帯も見られた。
そこで震災発生後2週間の回復傾向から、2組の数値の関連性を統計学的に調べる手段の1つである「回帰直線」を作製。今回のデータ解析では、震災発生からの経過日数に対して気分が直線的に回復すると見立てて式を作製し、震災前のレベルにまで回復する日数を予測したところ、震災後2週間から1カ月で、すべての時間帯において震災前のレベルまで気分が回復する予測結果が得られた次第だ。
調査は当初の終了予定日(3月24日)にいったん終了したものの、震災による気分の回復を確認する目的で、再度、同じ被験者を対象に6月6日から1週間にわたり同じ「KOKOROスケール」を使用した追跡調査を実施し、7人の平均的な傾向を解析した。その結果、6月には気分データは完全に震災前のレベルにまで回復していることが確認できたのである(画像2)。
画像2は、東日本大震災の前後にあたる2月23日~3月8日と3月11~3月24日、および追跡調査を行った6月6日~6月12日のKOKOROスケールデータを比較したものだ。それぞれの期間に取得した定時データを被験者7人で平均し、日付に沿ってグラフ化されている。3月11日の18時および就寝時からワクワク感の喪失とイライラ感の増大が見られ、その後ゆっくり回復していく。気分の回復傾向は時間によって差があり、就寝時の安心感は比較的早く回復するが(上グラフ水色の回帰直線)、13時のワクワク感の回復は遅い(下グラフ黄緑色の回帰直線)。
研究グループは、こうした貴重なデータの取得をきっかけに「KOKOROスケール」への入力をタッチパネルで行うアプリケーションを開発。これにより、直観的な気分感覚を2~3秒程度で容易に入力でき、数分ごと、数時間ごとの大量データの取得も可能となった形だ。
また、データはすべて実数で取り扱われるため、コンピュータを使用して即座に統計処理ができ、微妙なこころの変化を数値でとらえることが可能である。これまで気分や感覚など、主観的でさまざまな要素によって影響を受けやすいとされてきた心理調査も、繰り返し入力してもらった値を数学的に解析することで、個人の気分変化の特徴、同じ性別と年代の人々など、集団としての傾向などを詳しく把握することが可能になるというわけだ。
「KOKOROスケール」は、脳科学や心理学研究の手法、行政サービスの向上、企業の商品・サービスの評価と売上や顧客満足度の改善などへの利用が想定される。一方で、メンタルヘルス対策やスポーツ選手のメンタルトレーニング、国民や市民の幸福度の評価など、さまざまな分野へも応用可能だ。特に、数値で定量評価できるため、例えば抗うつ薬の内服治療と、他の心理・行動療法などとの治療効果の比較など、評価の難しかった医療分野での判定にも利用することが期待できるという。
また、タッチパネルを利用する「KOKOROスケール」アプリケーションをタブレット端末やスマートフォンに導入し、ユーザーの協力を得ることで、毎日、毎月、毎年など継続的かつ大量なデータを簡単に取得することも可能だ。遠方にいる患者や災害時の市民のストレス度・心理状況の把握、国民の幸福度の年次変化の調査など、連続した評価に威力を発揮するものと期待できると、研究グループではコメントしている。