東京大学(東大)大学院工学系研究科の樽茶清悟教授と山本倫久助教らの研究グループは、単一電子を周囲の電子から隔離したまま長距離伝送させて検出する技術および相関のある2電子を空間的に分離する技術を開発したことを発表した。同成果は、仏グルノーブルのニール研究所、独ボーフム大学との共同研究によって達成されたもので、2011年9月21日(英国時間)に英国科学雑誌「Nature」(オンライン版)で公開された。
量子力学の原理に基づいて情報の操作や伝送を行う量子情報処理は、盗聴の恐れがない量子暗号器、従来の計算機に比べて桁違いの処理能力を有する量子計算機(コンピュータ)などへと応用できることから、次世代の技術として注目を集めている。量子情報の基本単位である量子ビットは、量子力学的に定義される二凖位系(2つの状態を基底とする系)がそれに相当し、中でも、集積化が可能な固体中の電子スピンは電子の自転の方向に対応する量子二凖位系であり、将来の量子情報処理を担う量子ビットの有力な候補とされている。
こうした電子スピン量子ビットの制御を半導体中で行うためには、相互作用が強い粒子として知られる電子を周囲から孤立させて制御することが必要である。そのために用いられるのが量子ドットであり、単一電子をこれに閉じ込めることで、電子の量子力学的な状態を制御することができるが、量子情報素子の集積化においては、電子スピン間の相互作用を自在に制御したり、単一電子の持つ量子情報を遠くへ伝送したりするための技術が不可欠である。
こうした量子情報の制御や伝送は、デコヒーレンス(外部環境との相互作用により、量子力学的な状態が失われること)が起こる前に行われなくてはならず、研究グループでは今回の研究において、単一電子を量子ドット中から素早く取り出し、周囲の電子と相互作用させることなく別の量子ビットへと素早く移送する技術の開発を行った。
今回開発に取り組んだ技術は、光学実験における単一光子源や単一光子検出器に類似しているという。電子系において単一電子源、周囲の電子から孤立した媒体、そして単一電子検出器をすべて用意することで、これまで実現不可能であった単一電子単位での散乱、干渉実験が可能になるというもので、具体的にはGaAs半導体中で電子を電気的に閉じ込めることができる量子ドットを2つ用意し、それらを一次元細線によってつないだ。
図1:今回の研究で用いられた素子の構造。半導体表面にゲート電極を配することで、2つの量子ドットとそれらを結ぶ一次元チャネルが形成されている。また、試料の中心から1mm離れた場所にIDTを置き、表面弾性波を送ることができるようにしており、電荷検出計によって、量子ドット中に閉じ込めた電子の数を数えることができる |
さらに、量子ドットから離れたところに櫛形の電極であるインターディジタルトランスデューサ(IDT:表面弾性波発生器)を配置。GaAsは電圧によって結晶に歪みが誘起される圧電素子であるため、IDTに共鳴周波数の高周波(RF)電場を印加することで結晶の歪みの波が試料表面に誘起される。結晶に固有の伝播速度(GaAs系の場合には約3km/s)とIDTの電極間隔に対応する波長(今回の実験では1μm)を持つこの波は、表面弾性波(surface acoustic wave:SAW)と呼ばれ、減衰が小さいことが特長で、電子系に対しては静電ポテンシャルの波として伝わって行く。
実際の実験では、まず一次元細線を形成するゲート電極に充分な負電圧を印加して、これを空乏化した。これにより、電子の存在しない導波路が量子ドット間に形成されることとなる。
次に、2つの量子ドットの静電ポテンシャルを調整し、一方の量子ドットのみに電子を1つ閉じ込め、もう一方の量子ドットからは電子を完全に取り払い(単一電子源の準備)、外から余計な電子が出入りしないように各量子ドットと外部の熱浴との間のポテンシャル障壁を充分に高くする。この状態でIDTにRFパルスを与え、静電ポテンシャルの波を送ったところ、量子ドットに存在していた電子が伝播する静電ポテンシャルの波に捉えられ、空乏化した一次元細線中を他の電子と相互作用することなく伝播し、もう片方の量子ドットに捉えられたことが確認された。
量子ドットの近傍に設置された量子ポイントコンタクトと呼ばれる電荷計を用いて各量子ドット中の電子数を同時に読み出すことで、単一電子の移送を観測し、移送効率が90%を超えているを確認した。また、詳細な実験と解析により、移送のタイミングをナノ秒以下の精度で制御できることを確認したほか、伝送そのものに要する時間も1ns程度であるため、単一電子の移送は、電子スピンの緩和時間(環境との相互作用によって量子力学的な情報を失う時間)として知られる数10nsよりもはるかに短い時間で行うことができることが確認され、これらの結果により、このような単一電子の移送は、量子情報そのものの伝送に利用できると考えられるという。
図3:電荷計で観測される各量子ドット内の電子の変化。時刻50msにおいてSAWのパルスが送られ、左側の量子ドット(電子源)から右側の量子ドット(検出器)へと電子が移送された。電子数の変化によって、2つの電荷計を流れる電流値が変化する |
また、量子情報処理において最も重要なことは、非局所な量子相関を利用することであり、研究グループでは、科学技術振興機構(JST) 国際科学技術共同研究推進事業(戦略的国際共同研究プログラム)「トポロジカルエレクトロニクス」において、こうした非局所量子相関は、相関のある2電子をSAWによって空間的に分離することで作り出すことができると提案していた。
そこで今回、一方の量子ドットに相関のある2電子を用意し、そのうちの一方だけを別の量子ドットへと移送する実験も実施。片方の量子ドットに電子が2個入っている状態を作り出すと、これらの電子のスピンは互いに量子相関のある量子もつれ状態を形成。この状態で適度な強度のRFパルスをIDTに与えてSAWを発生させると、電子が1つだけ右側のドットへと伝送されることが確認された。この移送精度は90%程度で、この移送も電子スピンの緩和時間に比べて短い時間内で行われるため、離れた量子ドット中にある2電子は量子もつれ状態を保っていると考えられるという結果が示され、こうした非局所量子もつれ状態の生成は、量子情報の転送や量子テレポーテーションなどへとつながる重要な技術になると研究グループでは説明している。
今回の成果を用いることで、単一電子を周囲の電子から孤立して伝導させて検出することが可能となる。単一電子単位での干渉、散乱実験の実現は固体物理学者の長年の夢でもあり、これにより従来行われてきたような平均値としての電流や2次の電流相関(電流雑音相関)の測定だけからは得ることが難しい電子相関の性質の多くを解明することができるようになる可能性が出てきた。
また、離れた量子ドット間での単一電子の移送が電子スピンの緩和時間よりも短い時間で行われたことは重要な意味を持つとするほか、次のステップは、移送後の電子スピンのコヒーレンス(量子力学的な状態)が保たれていることを実際に確認することにあり、これを確認することは、非局所な量子もつれ状態を確認することにもつながるとしている。
なお、研究グループでは、そうした研究を実現しつつ、これまでに達成されてきた単一電子スピンの量子操作(電子スピン共鳴による電子スピンの回転操作)や2電子スピンの量子操作(交換操作など)と、今回の電子スピン伝送操作を組み合わせて、電子スピン量子ビットの拡張性を検証していく方針としている。