自然科学研究機構 分子科学研究所(IMS)の大森賢治研究主幹/教授らの研究グループは、分子1個の中で波のように広がった量子力学的な原子の状態(波動関数)に書き込まれた情報を、10兆分の1秒だけ光る高強度赤外レーザーパルスを照射することにより一瞬で書き換える技術を開発した。同成果は、2011年4月10日(英国時間)に英国科学雑誌「Nature Physics」(オンライン速報版)で公開された。

現代の高速情報処理はSiを用いたトランジスタの高集積回路に依存しているが、プロセスの微細化は限界が見えてきており、各種のナノテクノロジーなどを用いても、電荷を情報の担い手(担体)として用いる限り、電子の染み出しによって生じる熱やエラーなどの問題を避けることはできない。

これを解決するために同研究グループでは、電気的に中性な物質の量子力学的な波(波動関数)を情報担体として使うことに着目。1兆分の1秒以下のごく短時間だけ光るレーザーパルスを使えば、多数の波動関数に同時にアクセスし100万通り以上の異なった情報をnm以下のサイズの1個の分子に入力することができるという。

この情報密度は、2020年までに計画されている最高性能のDRAMの100倍以上であり、分子の波動関数を使ったコンピュータは、情報処理技術の画期的なブレークスルーになる可能性を秘めている。研究グループは2010年3月に、0.3nmサイズの分子の中の波動関数を使って従来のスーパーコンピュータの1000倍以上の速度でフーリエ変換を実行することに成功し、分子1個が超高速コンピュータとして機能し得ることを実証していた。

これは従来のSiトランジスタを基盤とした情報デバイスよりも100倍以上コンパクトで、1000倍以上速い情報処理技術として期待されるが、同時点では分子内の複数の波動関数に書き込まれた情報が分子固有の性質に従って自然に時間変化することを用いて計算していたため、2種類の特定の論理演算しか実行することができなかったこともあり、任意の演算を実行するために、分子内の情報を外部から書き換える技術の開発が望まれていた。

今回の研究では、ヨウ素原子2個でできているヨウ素分子をコンピュータとして用いた。まず10兆分の1秒程度の時間幅を持つ波長540nm程度の緑色のレーザーパルスを0.3nmサイズのヨウ素分子に照射、エネルギーの異なる複数の波動関数を分子1個の中に同時に発生させた。

また、同じく10兆分の1秒程度の時間幅を持ち高強度の波長1.4μmの赤外レーザーパルスを照射、各々の波動関数の強度がどのように変化するかを観察した。その結果、従来は干渉しないと考えられていた1個の分子の中の異なったエネルギー状態の波動関数が、図1に示すように高強度の赤外フェムト秒レーザーパルスによって混じり合い干渉することを発見した。

この新しい物理現象は世界で初めて発見されたもので、、研究グループにより「高強度レーザー誘起量子干渉(SLI:Strong-Laser-Induced Quantum Interference)」と名付けられた。

図1 高強度レーザー誘起量子干渉。従来は混じり合うことはないと考えられてきた異なるエネルギー状態の波動関数が、高強度の赤外レーザーパルスで混じり合い干渉(強め合ったり弱め合ったり)するという全く新しい物理現象が発見された

さらに図2に示したように、同SLIを用いて、分子1個の中の複数の波動関数の相対的な強度を赤外レーザーパルスの照射のタイミングを調節することにより変化させることにも成功した。1個の分子の中の複数の波動関数の強度の組み合わせは「ポピュレーションコード」と呼ばれ、従来のコンピューターにおける(101)、(010)といったバイナリコードのように分子コンピュータにおける重要なコードの1つで、研究グループでは今回、同ポピュレーションコードを世界で初めて外部から書き換えることにも成功した。

図2 分子コンピューター内の情報書き換え。赤外レーザーパルスの照射のタイミングを変化させると、3つの異なるエネルギー状態の波動関数の強度比(ポピュレーションコード)が変化する。波動関数の強度が1より大きい時「1」、小さい時「0」とすると、540nmレーザーパルスによる初期入力が、赤外レーザーパルスの照射によって(101)(図中の点線a)、(010)(図中の点線b)など異なったコードに書き換えられていることが分かる。図中のVBはエネルギー状態のラベリングで、VB=25、27、29はそれぞれエネルギーが低い方から数えて、26、28、30番目の状態に対応している

今回の研究成果は、分子コンピュータで任意の論理演算を実行するための基盤技術として期待されるほか、固体や液体の中で周囲の原子や電子との相互作用によって乱された波動関数を復元する基盤技術の開発にも役立つことが期待される。また、分子コンピュータを固体内で動作させたり、原子や電子の波としての側面と粒子としての側面がどのように共存しているのかなどの謎を解き明かす実験にも役立つことが期待されると研究グループでは説明している。