北海道大学大学院情報科学研究科/創成研究機構研究部の古賀貴亮准教授の研究グループはNTTと共同で、InGaAsをベースとした半導体量子井戸において、半導体の基本物性の1つである「スピン軌道相互作用」の大きさを精密に決定する実験に成功したことを発表した。これは、半導体内の電子スピンを、ある特定方向を軸に回転させたり、回転を止めたり、逆回りに回転させたりするといった、電子スピンの自在な制御が、トランジスタのゲートによって可能であることを実証したことに相当する。米物理学会が発行する学術雑誌「Physical Review B」のオンライン版に掲載された。

既存の半導体デバイスは、電子が電場によって加速する、電子の「電荷自由度」により動作しているが、電子は、「電荷」と共に「スピン」の自由度を持っており、それにより、電子一個一個は小さな磁石としての性質を有している。そのため、固体中電子のスピンは状況に応じて、ある向きに揃ったり、特定の軸に対して回転したりする。

図1 電子スピンの回転の様子。「電子スピン」の「スピン」の語源は、「自転」を意味するspin。「スピンの向き」は、「自転軸の向き」を意味し、「スピンが回転する」とは「自転軸が回転する」という意味。(a)は「スピンがある向きを向いたまま止まった状態」、(b)は「スピンが紙面に垂直な方向を軸にして回転している状態」、(c)は「スピンが(b)とは逆方向に回転している状態」を模式的に示している

量子コンピュータや低消費電力論理デバイスといった、スピンを利用した次世代デバイスを実現するには、このような電子の「スピン自由度」を半導体デバイス中でいかに制御するかが鍵となるが、今回の研究により、電子スピンの合理的な制御に必要不可欠な情報である「スピン軌道相互作用係数」の値が、InGaAsをベースとした半導体量子井戸に対して初めて厳密に決定されたこととなる。

用いた試料は、厚さ10nm程度の膜状のInGaAsを原子レベルの制御でInAlAsの間に挟み込んだ「半導体量子井戸」と呼ばれる構造のもの。このような構造では、膜状のInGaAsの部分に電子が集まり、電流が流れるチャネルが形成されることが知られている。

図2 今回の研究で使用した「半導体量子井戸」の模式図。水色で示した量子井戸の部分に電子が集まり、電流はそこを流れる

今回の実験では、FET構造を使用し、ゲートにより、チャネル内の電子濃度と膜に垂直な方向の電場(ゲート電場)を制御した。 測定では、熱による電子の擾乱を最小限に抑えて測定感度を上げるため、「希釈冷凍機」と呼ばれる装置で試料を-273.12℃(絶対零度は-273.15℃)まで冷却し、試料の磁気抵抗を様々なゲート電圧のもとで測定することにより「スピン軌道相互作用係数」の値を決定した。

図3 今回の研究で用いた「電界効果型トランジスタ(FET)」の模式図。図2に示した半導体量子井戸に、ソース、ドレイン、ゲートの3つの電極をつけて作製する。一般にFETでは、ゲートに電圧をかけるとチャネル(量子井戸)内の電子濃度が変化し、ソース-ドレイン間に流れる電流を制御することができる。今回の研究では、ゲートによる電子濃度の変化だけでなく、量子井戸内に発生する電場(ゲート電場)にも注目し、ゲート電場と電子スピンの間に働く力「スピン軌道相互作用」の大きさを明らかにした

図4は今回の実験で「スピン軌道相互作用係数」がゲート電圧とともにどう変化したかを示したもの。「スピン軌道相互作用係数」は電子スピンの回転のしやすさを表す指標であり、この値が大きいほど、電子スピンは、高速で回転することを意味する。図4の結果では、ゲート電圧を変化させることによって、チャネル内の電子スピンの回転を、回転方向も含めて制御できること、また、あるゲート電圧においては、電子スピンの回転をほぼ止めることさえもできることが実証された。

図4 今回の研究で得られた実験結果。「スピン軌道相互作用係数」の値が、ゲート電圧によって変化しているが、その変化は単調なものではなく、最小点(a)を持つ。(a)~(c)で示した部分のスピン回転の様子は、それぞれ図1の(a)~(c)に模式的に示したものに対応している

これらの成果による、「スピン軌道相互作用係数」の値がゲート電圧の関数として厳密に与えられたことは、将来の実用デバイスにおいても、ゲートによる電子スピンの精密な制御が可能であることを意味している。

「スピン軌道相互作用係数」は、個々の半導体材料を特徴づける基本物性値の1つであり、今回の実験手法は、InGaAs系以外の化学組成で構成される半導体の量子井戸にも適用することが可能だ。

そのため、研究グループでは今後、多くの半導体材料で同様の実験を繰り返し、「スピン軌道相互作用係数」のライブラリを作ることが研究の1つの方向となるとしている。ライブラリが作られることにより、半導体デバイスエンジニア(技術者)は、ライブラリから、個々の半導体の物性についての情報を調べ、材料を組み合わせ、バンドエンジニアリングを駆使することで、新たな機能を備えた電子スピンデバイスを考案/設計/作製することが可能となるという。

また、もう1つの方向性としては、今回の研究で使用したInGaAs/InAlAs系量子井戸を使って、新たな機能を持ったスピン電子デバイスを実現することだという。これについて研究グループでは、2重量子井戸構造を用いた「スピン流発生デバイス」をすでに考案しており、今回の研究成果は、このデバイスを試作するための第一歩として重要なものであると説明している。