理化学研究所(理研)は、ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞が神経細胞へと分化を開始するときに働くスイッチの制御機構を明らかにしたことを発表した。英国の科学誌「Nature」2月24月号に掲載されるほか、2月16日(英国時間)の同誌オンライン版にも掲載された。
ヒトや動物のES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞は、すべての種類の体細胞に分化する能力(多能性)を有しており、試験管内で医学的に有用な細胞を産生する提供源として注目を集めている。理研では、ES細胞などから神経細胞やその前駆細胞を効率よく分化させる方法として、無血清凝集浮遊培養法(SFEBq法)の開発を進めている。
同手法は、ES細胞やiPS細胞を分化誘導する際に、通常の細胞培養で添加する牛血清や増殖因子を除いた培養液で培養する方法。ES細胞やiPS細胞は、中胚葉や内胚葉への分化には牛血清や増殖因子が必要であるのに対し、神経前駆細胞への分化には牛血清や増殖因子は不要で、むしろこれらの添加が抑制的に働くという特徴を持つことが分かったため、その現象を利用している。
無血清浮遊培養法によるES・iPS細胞の試験管内神経分化。ES細胞やiPS細胞は、SFEBq法で培養を開始すると、外胚葉を介して神経細胞に分化する。SFEBq法は、ES細胞などの凝集塊を5日以上、血清や増殖因子を含まない培養液で浮遊培養することで、高効率に神経分化を誘導するというもの |
また、この現象がES細胞・iPS細胞にとどまらず、広く脊椎動物の初期胚の未分化な細胞に共通したものであることが、これまでの十数年の発生学の研究から明らかとなっている。初期胚の未分化な多能性細胞は、分化する際に、外部から増殖因子シグナルなどの特別な刺激を受けずにいると、基底状態(デフォルト)として神経前駆細胞になる性質を持っており、これは、ES細胞やiPS細胞から脳などの組織を産生する際に好都合で、この性質を活用することでSFEBq法では誘導効率約9割を実現している。
しかし、ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞の分化の基底状態は、多々ある細胞分化方向の中で、特に神経分化方向へセットされてしまうのかといった疑問は、発生学や幹細胞生物学での謎の1つとして残っており、研究グループでは今回、システム生物学的手法を駆使して、この謎の解明を図ったという。
具体的には、マウスES細胞を用いて、ES細胞が神経前駆細胞へと分化する非常に初期の段階で活性化される(発現を始める)遺伝子を探索。SFEBq法で3日間培養し、神経前駆細胞になったばかりの細胞と、未分化なままとどまっている細胞に対して、DNAチップ法による網羅的遺伝子発現解析を行い、神経前駆細胞へ分化した場合にだけ発現する遺伝子をスクリーニングした。その結果、104個の遺伝子が神経分化に伴って発現量が増えていることが判明。それらの遺伝子のうち、神経以外の組織にはほとんど発現していなかった29個が、神経分化を制御している可能性が高いと判断したという。
これら29個の遺伝子を単離し、遺伝子操作でES細胞の中にそれぞれ1個ずつ強制的に強く発現させる実験を行ったところ、ES細胞の神経分化を亢進させる遺伝子が1個発見され、研究グループでは、それが核内に存在するZnフィンガータンパク質をコードするZfp521遺伝子であることを明らかした。
Zfp521遺伝子を強く発現させたES細胞は、高い神経分化の能力を発揮しており、例えば、通常のES細胞では神経分化を起こさないBMP4という神経分化阻害因子を含んだ培養液でも、Zfp521遺伝子を強制的に発現させたES細胞では、効率よく神経細胞へと分化することが判明した。
さらにRNAi法を用いて、Zfp521タンパク質が細胞内で発現できないように遺伝子操作したマウスES細胞を作製。同マウスES細胞は、通常は神経分化を誘導するSFEBq法でも、神経分化が誘導しなかったほか、同様にヒトES細胞でも、Zfp521遺伝子は神経分化の初期過程で強く発現していたが、RNAi法でZfp521遺伝子の機能を阻害すると、神経分化の効率が大きく低下したという。
そのため研究グループでは、これらの結果から、Zfp521タンパク質は、動物およびヒト多能性幹細胞(ES細胞)の神経分化を開始するために不可欠な神経分化促進因子であるとが判定。その一方で、Zfp521遺伝子の機能を阻害したマウスES細胞を、牛血清などを用いて中胚葉や内胚葉、あるいは表皮細胞などへ分化誘導させたところ、通常のES細胞と同様に効率よく分化が起こることも突き止め、Zfp521タンパク質が、未分化細胞から神経前駆細胞を産生する分化だけに特異的に必要とされる因子であり、他の分化の方向には関わらないことを明らかにした。
Zfp521遺伝子の機能を阻害したES細胞は、神経細胞への分化だけが選択的に阻害された。Zfp521遺伝子の機能をRNAi法で阻害したES細胞は、SFEBq法などの神経分化培養でも神経前駆細胞へ分化しなかった。一方、中胚葉、内胚葉、表皮細胞へは正常に分化した |
その後、研究グループでは、Zfp521遺伝子の機能を阻害したマウスES細胞を、マウスの着床前胚である胚盤胞に注入してキメラ胚を作製。通常のES細胞を胚盤胞に注入して、その胚を着床させ発生させると、注入したES細胞はマウス胎児のすべての組織にほぼ均一に取り込まれて、それぞれの組織の細胞に分化したことを確認した一方、Zfp521遺伝子の機能を阻害したマウスES細胞を注入したキメラ胚では、ES細胞は脳の組織には取り込まれず、脳の神経細胞への分化は認められなかったことから、このキメラ胚のその他の組織は、Zfp521遺伝子の機能を阻害したES細胞から分化した細胞を含んでおり、ES細胞から脳への発生だけが起こらなかったことが判明したという。
これらの結果は、Zfp521遺伝子が、ES細胞が試験管内で神経分化を開始するために必要なだけではなく、胚の環境において、未分化細胞から脳組織が発生する初期段階でも必須の役割を果たすことを示しており、研究グループでは、さらにZfp521 タンパク質がどのように神経分化を促進するのかを明らかにするため、細胞核でのDNAとの相互作用を分子生物学的手法で解析した。
その結果、Zfp521タンパク質は、神経前駆細胞の分化開始後に強く発現する複数の遺伝子(Sox3、Pax6遺伝子など)のDNAに強く結合していることが判明。Zfp521タンパク質は、これらの遺伝子の位置に転写を活性化するp300というタンパク質を引き込んでくる働きをし、その結果、神経細胞に特有の遺伝子だけを活性化する(発現をオンにする)転写促進因子として機能することを突き止めた。
今回の研究では、「なぜ、胚の未分化細胞やES細胞などは、特定の増殖因子などの刺激を受けないと、基底状態(デフォルト)として、神経前駆細胞に分化するのか」という謎に対して、分化の過程でZfp521タンパク質が細胞内で自然に蓄積されるためであるという答えが明らかにされたほか、逆に、BMP4などの増殖因子シグナルが細胞に入ると、それらのシグナルがZfp521タンパク質の発現を阻害してしまい、神経分化の効率が低下することも明らかとなった。
現在、研究グループでは、次の大きな謎である「Zfp521タンパク質がなぜ自然に分化過程のES細胞の中で発現しだすのか」を解くために、さらに分化のメカニズムを明らかにし、ES細胞やiPS 細胞からさまざまな細胞が産生される制御機構を体系的に理解するための解析を進めているという。
SFEBq法は、ヒトES細胞やiPS細胞から、約9割の細胞を神経前駆細胞に分化させることに成功しているが、残りの1割弱の細胞は、神経系細胞以外のものであり、こうした不純物の混入は、再生医療における細胞移植において、がん化や副作用などのリスクを増大させる可能性があると研究グループでは指摘しており、今回の研究で、ES細胞・iPS細胞が神経系の細胞になるか、他の種類の細胞になるかをZfp521タンパク質の存在が決定することが分かったことで、今後、細胞中でZfp521タンパク質の発現を増やす培養条件を検討していくことで、さらに高度に選択的な神経細胞の産生を可能にし、再生医療の安全性の向上につながるものとの見解を示している。