シンガポールと聞いて真っ先に思い浮かぶのはどんなイメージだろうか。外資系企業に勤めている方なら、アジアリージョンのヘッドはシンガポールに置かれているところも少なくないだろう。何年か前に観光で訪れたことがある人なら、あのちょろちょろと水を吐く「マーライオン」を思い出したかもしれない。筆者も10年以上前に一度訪れたことがあるが、赤道直下の南国にありながら、いまいちリゾートっぽさが足りないなと感じたものである。
だが、今となってはそれらのイメージはすでに過去のものなのかもしれない。2010年1月、シンガポールの南、セントーサ島に巨大な総合リゾート施設が誕生した。その名は「リゾート・ワールド・セントーサ」 - 49ヘクタールもの広大な敷地に、ユニバーサルスタジオなどの巨大テーマパーク、24時間営業のショッピング&グルメストリート、コンベンションセンター、6つのホテル、そしてシンガポール初のカジノを擁するアジアでも最大級の高級リゾート地である。
この超巨大リゾートの開発を請け負ったのがアジアでも有数の企業グループであるゲンティン(Genting)だ。2006年12月にシンガポール政府から開発業者に選ばれて以来、2010年1月の開業(第1期オープン)に至るまでに投じられた資金は約4,300億円、しかしまだ全体の60%程度しか完成しておらず、現在も第2期の開発が進められている。
今回、同リゾートを運営するゲンティングループのリゾート・ワールド・セントーサにてシニアプレジデント兼IT&オペレーションサービス部長を務めるヤップ・チーユェン(Yap Chee Yuen)氏にお話を伺う機会を得たので、これを簡単に紹介したい。肩書きからおわかりのように、同氏の役割は超巨大リゾートの運営を支えるITシステムの構築、そして運用の指揮を執ることにある。大規模システムを設計/構築/運営するリーダーにはどんな責務が伴ったのだろうか。
--ゲンティンがセントーサ島のリゾート開発を請け負うことになったきっかけを教えていただけますか。
他のアジア諸国に比べ、観光産業の伸びがあまり良くないという事実は、シンガポール政府にとって長年の悩みのタネでした。そこで2006年、セントーサ島にカジノを含む巨大リゾートを開発するという計画が立てられました。国を挙げてのプロジェクトでしたが、入札の結果、ゲンティンが大部分の開発を行うことになりました。
--リゾートの評判はいかがでしょうか。
思った以上の反響を得ています。それまで年間900万人程度だった観光客が1,400 - 1,500万人まで増加しました。人数が増えただけでなく、観光客がシンガポールに滞在する期間も2、3日増えるという傾向にあります。また観光客が増えただけでなく、1万3,000人を超える雇用を創出することができたのも大きな収穫ですね。
--シンガポールはアジアの中でも治安が厳しい国という印象が強いのですが、合法カジノをリゾート内に作るという案は同政府にとってかなり思い切ったものではないでしょうか。
政府内でも多くの議論があったようです。ですがその結果、カジノを作らないより作ったほうがシンガポールにとってベネフィットが大きいという結論に達しました。社会的な問題が生じるかもしれないが、仮にそうなったとしても、利益のほうが大きいと判断したわけです。
セントーサのカジノは海外からの観光客だけではなく、シンガポールに住む人びとも自由に楽しむことができます。ただし、シンガポール住民には24時間100ドル、もしくは年間2,000ドルの入場税が課されます。また、一部の人びと、たとえば家族や自分自身が(ギャンブル中毒と)申請した「自己排除システム」適用者、自己破産者や重犯罪者などは、カジノ施設には立ち入ることはできません。(オープンから1年が経つが)現在のところ、こういった規制は効果的に働いているように見えます。
私はこのリゾートのITシステム担当者ですが、最も大変だったのはこのカジノのシステムですね。セキュリティ上の失敗は絶対に許されません。非合法的な資金の持ち込みや洗浄などがあってはならないので、当然、政府からの要求もきびしいものでした。システムを作る際には、セキュリテイ上の要求を優先し、その上で広いフロア管理を効率的に行えるオペレーションを考えねばならなかったので、そのバランスを取るのは最も難しかったです。
シンガポール初のカジノということもあり、さまざまな方面からさまざまな条件がついたという。チーユェン氏はフロアのレイアウト設計にも関わり、オペレーションの効率を上げるために、CCDカメラの配置といった細部まで考慮する必要があった |
--チーユェンさんは2007年にゲンティングループに入社され、それからこのリゾートのITシステム設計の指揮を執ったと伺っています。これほど大きな規模のシステムをゼロから設計/構築するために、どのような方法を取られたのでしょうか。
大きく分けて3つのタスクが挙げられます。
1つめとして、ビジネスコンポーネントをすべて洗い出し、リスト化、そして重要度の優先付けを行いました。テーマパーク、カジノ、ホテル、とそれぞれの施設で必要なITソリューションをリスト化し、それぞれについて、コストや人員、時間の面から考えて自社で調達すべきなのか、それとも外部のリソースを活用すべきかといった判断を行っていきました。
2つめは、スキルをもった人材の確保です。これが最も重要だったと言っても過言ではありません。このように大規模な開発では、トップから現場のプログラマに至るまで、スキルをもった人材を数多く集めることが成功を大きく左右します。外部の業者を選定する場合もこれに漏れません。私は2007年4月に入社しましたが、夏までにはなんとか150名のコアスタッフを集めることができました。これは大きかったですね。
3つめはバックエンドのビジネスプロセスとビジネスフローを結びつけた設計図を描くことです。セントーサのようにさまざまな施設が存在する複合型リゾートでは、カジノだけ、ホテルだけ、ショッピングセンターだけ、といったように、施設内だけで完結するシステムはあまり意味をもちません。ホテルに泊まったお客様がカジノでもスムースにサービスを受けられるようにするためには、どんなシステムが必要か、そういった要件をリスト化していきました。もっとも、カジノだけはほかの施設とやや性質を異にしたため、独立させて存在させなければいけない部分も多く、また、我々にとっても初めてのカジノ案件だったため、かなり大変でした。
設計をほぼ終了し、実際にインプリメンテーションに入ったのは2008年からです。ですが、これほど大規模な案件だと、設計中や実装中にころころと条件が変わることはしょっちゅうで、それらのすりあわせにはかなりの時間を要しました。ようやく全体図が見えてきたのは2009年後半で、それからテストに入りました。
--クラウドソリューションの導入などは図られているのでしょうか
広いリゾート地のように見えますが、我々は土地を効率良く使うことにこだわり、仮想化で生産性をアップするよう図りました。35%のサーバを仮想化しており、ラック率は20%とかなり高めです。とくにカジノのITシステムはかなり仮想化が進んでいます。またアプリケーションについても、たとえば運転手が送迎のためにお客様をピックアップするスケジュールを管理するアプリケーションがありますが、こういったものはすべて仮想化しています。
--今回のシステムを構築する上でいちばん大変だったことはなんでしょうか。
コスト管理も重要で大変でしたが、一番は人のマネジメントですね。それは2つの側面からいえることです。ひとつは私の部下となるITスタッフの管理です。彼らは技術はあるのですが、これほどの規模のシステムとなると技術者ひとりひとりに正確性とは別に、イマジネーションの拡がりが求められます。そのマインドセットをどう導くかが私にとってはかなり重要な仕事でした。
もうひとつは一般の従業員、たとえばレストランやカジノの店員への教育です。お客様が使うシステムよりも、従業員が触れるシステムのほうがずっと多いので、彼らに理解してもらわなければ、リゾート全体のサービスレベルにかかわります。そのためには彼らとコミュニケーションを図る努力を重ねました。決して上から目線になってはダメで、ユーザである彼らが使いやすいシステムを作ることを心がけました。ユニフォームの中に仕込んだRFIDチップなどはその好例ですね。ロッカールームにユニフォームを入れると、自動的にロッカーからランドリールームに送られます。そしてクリーニングが終わるとまたロッカーに戻されるのですが、従業員ごとのRFIDがユニフォームに埋め込まれているので、他人のロッカーに行ってしまう心配はありません。
--いくつもの外部の会社を使ったと聞いていますが、その中にNECも入っているとか。
NECにはテーマパーク(ユニバーサルスタジオ)のチケット入場システムや、カジノのクリティカルな部分のシステム構築で協力してもらいました。従業員のIDカード管理システムなどバックエンドにも深く関わっています。チームワークという意味ではNECとは非常にうまくやることができたと思っています。外部といえども、やはり信頼関係の構築は何より重要です。NECはシンガポールに拠点をもっいることもあって、意思疎通がしやすく、フットワークが軽かった点も助かりました。
--最後に、こういった巨大プロジェクトを指揮することは、人生の中でもしょっちゅうあることではないように思えるのですが、チーユェンさんはこのお話を最初聞いたとき、どう思われましたか。
おっしゃるとおり、巨大な国家プロジェクトに関わることはそう何度もあることではありません。このようなチャレンジなタスクは、IT担当者にとっては大きなオポチュニティですが、同時に、高いリスクを背負い込むことになります。(受けるかどうか)慎重に答えを出しましたが、パイオニア的な存在になれるという魅力は大きかったですね。家族の支えも重要なので妻にも相談しましが、ぜひやるべきだと賛成してくれました。もっとも我が家では妻の許可がないと何も出来ないのですが(笑)。