国内最北に位置しながら、動物園として入場者数で日本一になった「旭山動物園」。一時は閉園の危機に追い込まれながら、奇跡の復活劇を遂げた当時の動物園の園長としてリードした、現名誉園長である小菅正夫氏が、11月にガートナー主催の「Gartner Symposium/IT Expo 2009」で「日本一の動物園: 夢を実現した改革」と題した基調講演を行ったので、この模様を紹介しよう。
1973年に旭山動物園の獣医師として就職し、飼育係長、副園長を歴任した後、1995年に園長に就任した小菅氏。同氏曰く、プロの飼育者とは「動物のことは何でも知っている。難しい動物を健康にして長生きさせる。繁殖の難しい動物に子を産ませ、育てさせる」ことが使命だという。それゆえに、当時年々入場者数が衰退の一途を辿った動物園の職員について「技術のことばかり考えて、お客さんのことはまったく考えていなかった」と評する。さらに、1980年代に入り、万博の開催やディズニーランドの開園など、人々にとっての娯楽場所は遊園地化された場所だったと振り返る。
その一方で、当時の旭山動物園に対する市の判断は閉園の方向に動いていたという。さらに、1994年にはニシローランドゴリラ、ワオキツネザルが相次いでエキノコックス症で死亡するという事態に見舞われ、一時閉園にまで追い込まれた。「事実を公表するか否かでもめたが、事実は公表すべきであるという信念のもと、市長にも理由を説明に行った。事実を知らない来園者が感染する確率がゼロではない限り、科学者としてたとえ0.1%でも危険があるのなら隠すことはできない」と主張した小菅氏は、その数カ月後には園長に就任した。
こうした状況の中、エキノコックスによる風評被害が入園者減少に追い討ちをかけ、1996年には26万人にまで後退。しかし、小菅氏の胸のうちは「落ちるところまで落ちた。あとは上がるだけ」と意外にも前向きだったと語っている。
そこで"理想の動物園化構想"を掲げた小菅氏は、1991年に入園者への聞き取り調査を実施。その結果、多くの家族連れから得られたのは「動かない動物をただ見ているだけで、いつ来ても同じ。動物園は面白くない」との声。さらに、家族とともに動物園を訪れようとしない中高生に至っては「知らない動物なんていない。子供じゃないから」といった意見が相次いだことに対して、「我々にとっては、毎日調べているのにいまだに理解できない。本当だろうか?」と疑問を覚えたという。
こうした辛辣な声を真摯に受け止めた小菅氏が次に行ったのは、現状の分析と問題点の把握だ。そして、"動物を伝える"という動物園としての使命の原点に立ち返り、魅力あふれる動物園の再建を目指した。
そうした中、策定されたのが「動物舎改造計画案」だ。"動物たちが安心して暮らすことができ、彼らを最も魅力的に見えるようにする"を園のビジョンとし、1997年から行動展示の施設の建設を開始。その他、動物たちの説明がより読まれるように看板を手書きにしたり、動物が活動的になる夜間や冬季の開園を行うなど、小菅氏は次々に動物園の改革に着手していったと話す。
そしてその一方では、職員たちの意識改革にも図られた。動物園で動物を飼育する理由や飼育係の目的について改めて問い正し、「野生動物の魅力を伝えて彼らの味方をたくさん作ることが動物園の役割」とし、職種の名称をそれまで称していた"飼育係"から"飼育展示係"に変更。小菅氏曰く、「この呼び方の変更が職員の意識を大きく変えた」という。
こうした試みが功を奏した結果、年間入場者数は、2005年度には前年比55万人増の206万人、2006年度には304万人を記録。2007年度には307万2,353人の年間入場者数となり、上野動物園の350万人に次ぐ国内2位の実績を残したほか、入園料を払った年間の入園者数では、上野動物園の150 - 60万人を上回る250万人となり、世界15番目に君臨した。
旭山動物園の奇跡の復活に大きな功績を残した小菅氏。「周囲からはよくアイディアが続くねと言われるけれど、もともと持っていたアイディアを出しただけ。あと10年は続けられる」と、今後の発展についても意欲を示した。
そして、最後に「我々の目的は入園者数ではなく、動物の魅力を伝えること。そして、動物園に来た多くの人を野生動物の味方につけ、地球環境保全の意識を持ってもらいたい。野生動物を守りながら地球も守ろうという社会活動を行える国になることが我々にとっての目標」と語り、講演を締めくくった。