中東の反政府組織に誘拐された人物の記載を巡り、Wikipedia上で繰り広げられた編集合戦が話題となっている。誘拐された報道記者の所属する新聞社は、誘拐報道が広がることで同人物の人質の価値が上がることを懸念、周辺マスコミに依頼して箝口令を敷いた。だがWikipediaで同人物を扱ったページへ誘拐事実を書き込む匿名人物からの投稿が相次ぎ、長期間にわたってWikipediaの運営チームとの追加/削除を繰り返す編集合戦が巻き起こっていた。そして先週、報道記者が拘束状態から脱出に成功したことで、この事実が改めて明かされることとなった。
渦中の人物となったのは米New York Times (NYT)の記者David Rohde氏で、2008年11月にアフガニスタン周辺を拠点とする反政府組織タリバンによって誘拐された。ピューリッツァ賞の経験もある同氏は、現地人記者と運転手の2名とともに移動中にタリバンによって拘束され、8ヶ月弱に及ぶ監禁状態となった。だが前述のように人質としての価値が上がることで生命の危険度がより増すことを恐れたNYTは誘拐の事実を隠し、報道によれば他の35の報道機関と協力して事実上の箝口令を敷いた。結果として誘拐の事実は一般にはないものとして広がらず、6月後半にRohde氏が現地人記者と監禁拠点の脱出に成功するまで(運転手は拘束後になぜかタリバンに参加したという)、大々的に報じられることはなかった。
同業メディアの箝口令には成功したNYTだったが、Rohde氏の脱出までの期間にその事実を広めようとする勢力との長い戦いが続いていた。それがインターネットのフリー百科事典「Wikipedia」だ。Rohde氏が誘拐されて以降、同氏のWikipediaのページにはタリバンによって誘拐された旨の文章が書き加えられ、それが運営によって削除され、また改めて書き込まれるというイタチごっこが続いていた。Wikipedia FoundationではNYTからの要請で事実の秘匿に協力していたことが、後に明らかになっている。わかっていることは、当該の書き込みを行ったユーザーが米フロリダ州のプロバイダから接続していたという事実のみで、仕組み上Wikipediaの運営チームがユーザーを特定し、事情を説明することができない事態が続いていたようだ。一方で、理由もなしに書き込みの削除を行ったとして当該のユーザーがWikipediaの運営を罵倒し続けるという状態で、誰もが参加できるというWikipediaの特性がアダとなった形だ。
今回のRohde氏の誘拐事件は、既存のメディアの枠に収まらないWikipediaの今後の可能性と同時に、参加型メディアゆえのコントロールの難しさを浮き彫りにしたといえる。