間もなく夏期休暇。まとまった休みを目前に控え、余った時間を知識に変えるための良書をお探しのエンジニアも少なくないだろう。本誌では、そうしたエンジニアの要望に応えるべく、数回にわたり、各分野のエキスパートが薦める書籍を紹介していく。

今回、推薦を依頼したのは、IBMディスティングイッシュト・エンジニアの肩書きを持つ榊原彰氏。要求工学からテスト工学まで、ソフトウェア開発全般に精通する同氏に、上級エンジニアが一回り成長するための書籍を挙げてもらった。

榊原彰

日本IBM所属。最年少で「IBMディスティングイッシュト・エンジニア」の職位を取得した高名エンジニア。現在、同社グローバル・ビジネス・サービス事業部においてITアーキテクトとして活躍するかたわら、独立行政法人 情報処理推進機構 ソフトウェア・エンジニアリング・センターの「非機能要求とアーキテクチャ」ワーキング・グループ 主査、NPO法人 ソフトウェアテスト技術振興協会 理事なども務める。

『ライフサイクルイノベーション』

『ライフサイクルイノベーション - 成熟市場+コモディティ化に効く 14のイノベーション』(著者: Geoffrey A. Moore、翻訳: 栗原潔、発行: 翔泳社)

「ソリューションを提供する以上、技術者といえども経営者の視点やビジネス環境の変化に対する嗅覚を持っておかなければならない。それらを学ぶうえで、この本は非常に役立つ」――榊原氏は、『ライフサイクルイノベーション』を推す理由をこのように説明する。

同書は、先進的な取り組みも時間とともに次々とコモディティ化・陳腐化していくビジネスの世界において、どうすればイノベーションを継続できるのか、その答えについて事例を添えて説き明かしている。

「ビジネスアーキテクチャの策定に携わるうえでは、経営戦略から、それをITシステムにつなぐアーキテクチャ設計まで多岐にわたる知識が必要とされる。その知識の経営戦略部分を補ううえでこの本は有効。事例とともに紹介されているため説得力がある」(榊原氏)

さらに榊原氏は次のように続ける。

「ビジネスの構造は、標準化された製品と商取引により大量販売市場でビジネスを遂行する"ボリュームオペレーション"と、コンサルティング要素が大きい個別ソリューションである"コンプレックスシステム"という2つのモデルに大別できるという。これは誰しもなんとなくわかっていることではあるが、事例と併せて解説されると納得することができる。エンジニアの皆さんもこのあたりの内容をぜひおさえてほしい」(榊原氏)

『インクス流!』

『インクス流! - 驚異のプロセス・テクノロジーのすべて』(著者: 山田 真次郎、発行: ダイヤモンド社)

金型製作企業「インクス」の代表 山田眞次郎氏が、同社の成功の軌跡を描いた1冊。

インクスは、独自のプロセス技術を持ち、モノづくりとIT技術の融合によって、携帯電話の金型製作のリードタイムを45日間から45時間へと劇的に短縮した企業。『インクス流!』にはその革命の歴史が記されている。

「金型製作ノウハウをITにぶちこみ、プロセス改善を行うことでリードタイムの劇的な短縮に成功している。何度もモックアップを作成し、漸進的に進めていた従来の製造スタイルが排除され、大幅な効率化を実現していることがわかる。ITとはかくあるべきと感じた」(榊原氏)

以前から「BPR(Business Process Reengineering)」や「BPM(Business Process Management)」といった用語に関連する書籍が多数出版されているが、「この本を読むと、そういった書籍に載っている"お決まりの作法"だけでは物足りないと感じるはず」(榊原氏)という。

「山田氏の強烈な哲学の下に断行されたインクスのプロセス改善は革新的。2003年に出版された本だが、今読んでも衝撃的な内容になっている。金型サービスに限らず、他のサービスでも適用できるものなので、ぜひ一読してほしい」(榊原氏)

『プロブレムフレーム』

『プロブレムフレーム - ソフトウェア開発問題の分析と構造化』(著者: Michael Jackson、翻訳: 牧野 祐子、発行: 翔泳社)

「システム構築は通常、要求の分析から始まるが、本来はその前に問題を分析する工程があってしかるべき。その問題分析について解説した書籍がこの『プロブレムフレーム』だ」(榊原氏)

同書の著者は、データ構造に基づいてプログラムの構造を決める設計手法「ジャクソン法」の考案者として知られるMichael Jackson氏。構造化のスペシャリストが、問題のパターン化に挑んだかたちだ。

「『プロブレムフレーム』では、問題の表出形を5つの基本パターンに定義。それを基にした問題の構造化手法を解説している。著者が考案した、問題構造の表記法も紹介されており、実践的な内容になっている。哲学や形而上学から採用した表現もあるので難しい部分もあるが、非常に面白い」(榊原氏)

榊原氏は、「プロブレムフレームの考え方は、要求工学の中でも特殊な位置づけにある」と補足する。

「これまで要求に焦点が当てられることは多かったが、問題が何かについて考えることは少なかった。その意味で同書は注目すべき1冊。問題が分析できれば、顧客から出された要求が本当に正しいか否かを判断することができ、真の問題を探り当てて良いソリューションを提供できる。問題の構造化手法や表記法をマスターするまでに至らなくても、意識改善にはつながるはず」(榊原氏)

『アジャイルソフトウェア開発の奥義』

『アジャイルソフトウェア開発の奥義』(著者: Robert C. Martin、訳者: 瀬谷啓介、発行: ソフトバンククリエイティブ)

IBMディスティングイッシュト・エンジニアの肩書きを持つ榊原氏が「アーキテクト向けの本格的な1冊」として紹介したのが『アジャイルソフトウェア開発の奥義』である。

同書はソフトウェア設計の原理原則をまとめたもの。Open-Closed Principle、The Liskov Substitution Principleなど、デザインパターン等から抽出した共通ルールが多数掲載されている。

「パターン、すなわち定石を覚えるのは、ソフトウェア開発者にとって良いことだと言われている。ただし、なぜそのパターンが良いのかを知らないと使い方を間違うこともある。この本に掲載されているような原則を知っておくと、パターンに対する理解が進むし、覚えるのも楽になるはず」(榊原氏)

同書はこれからアーキテクトを目指す人はもちろんだが、「ベテランのアーキテクトにもぜひ読んでほしい書籍だ」(榊原氏)という。

「ここで書かれているような原則を、理屈ではなく、感覚的に習得しているエンジニアも多いが、このように体系化されていることを知っている人は意外に少ないのではないか。この本で知識を整理できれば、後進の指導にも役立つ」(榊原氏)

なお、書籍のタイトルから、ソフトウェアプロセスの話が中心のように感じるかもしれないが、「アジャイルの話は第1部だけ。その後は先ほど述べたようなソフトウェア設計の原理原則の解説」(榊原氏)だという。ただし、その第2部以降が特にすばらしく、「広範囲にわたるわかりやすい解説で理解が進む」(榊原氏)と評価する。夏休みに腰をすえて学習したいエンジニアにはお薦めだ。