NECの社長および会長を務めた関本忠弘氏が、11日午前8時20分、脳梗塞のため、東京都大田区の病院で死去した。享年80歳。通夜および告別式は、近親者のみで行い、近く、NECおよび国際社会経済研究所により、「お別れの会」が開かれる予定。
1926年兵庫県神戸市出身。1948年に東京大学理学部を卒業後、NECに入社。1965年に中央研究所通信基礎研究室長、1972年伝送通信事業部長を経て、1974年取締役就任。常務、専務を経て、1980年に53歳の若さで社長に就任。パソコン事業を成長させ、NECを国内最大のパソコンメーカーに育て上げたほか、社長在任中には、東京・三田に新本社ビル「スーパタワー」を完成させた。14年間の長期政権ののちに、1994年には会長に就任したが、1999年には、防衛庁および宇宙開発事業団との取引で過大請求していた背任事件が発覚。「事件に対する責任ではなく、道義的、社会的にけじめをつける」として、創立100周年を目前にして取締役相談役に退き、当時務めていた経済団体連合会評議員会議長も辞任した。
2000年には、国際社会経済研究所理事長就任、昨2006年は名誉顧問に就任していた。
財界活動にも熱心で、経済団体連合会副会長、経済団体連合会評議員会議長、経済同友会副代表幹事、ニュービジネス協議会会長、日本電子機械工業会会長を歴任。一時は、経団連会長の座を争った。
紫綬褒章、藍綬褒章受章のほか、IEEE最高栄誉賞、レジオン・ド・ヌール勲章などを受章している。
関本氏の前任社長である小林宏治氏が提唱した「C&C(コンピュータ&コミュニケーション)」を引き継ぎ、通信、コンピュータ、半導体という3つの事業を、同社の事業の柱に成長させた。とくに、パソコン事業を軌道に乗せ、50%を超える圧倒的なシェアから、ガリバーとさえ称されるPC-9800シリーズによって、日本のパソコン業界の牽引的役割を果たした。
「時代の風を肩で知れ」「感じて、信じて、行動しよう」「早さは力なり」「継続は力なり」「マジョリティは現在のために、マイノリティは未来のために」といった名言でも知られ、研究所出身ながらも、卓越したマーケティングセンスや、1965年から2年間の米国コムサットへの出向によって培われた米国流の経営手法などにも高い評価が集まっていた。
電電ファミリーであったNECが、ブランド力を持った消費者向け事業において成功を収めたのも、関本氏の手腕によるところが大きい。