インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工場、工事風景を見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種である。
いつもの散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、その素晴らしさを共有することを目的とする本コラム。今回訪ねたのは、東京の幹線道路の地下深くに存在する治水用トンネル、「環状七号線地下広域調節池(石神井川区間)工事」の工事現場である。
いずれ東京湾に到達する遠大な地下トンネル計画
果てしなく続くビル群、からみ合うように張り巡らされた道路、どこからともなくあふれ出てくる人々――。
東京の街は、限界まで絵の具を塗り重ねたジャクソン・ポロックの絵画に似ている。
そしてこの大都会には、地表からは確認できない構造物も無数に存在し、また増殖しようとしている。ひたすら拡大を続ける、底の抜けた立体迷宮のようだ。
東京23区西部にある、「環状七号線地下広域調節池(石神井川区間)工事」の工事現場見学会に参加した。多くの人にとって初めて耳にする響きかもしれないが、“調節池”とは、近年は特に注目される治水目的の防災インフラだ。豪雨時、河川が氾濫する前に水を誘導して貯留し、道路や住宅地への浸水被害を軽減する役割を担っている。
「池」という字面から、スイミングプールのようなものを思い浮かべる人も多いだろう。確かに、東京都内で現在稼働している27の調節池のうち半数以上の15件は、地面を掘って造られたいわゆるプールタイプ。それらは「堀込式」と呼ばれる。
しかし他の12件は、普通に生活をしている市民の目には触れない、地下深くに設けられた施設だ。地下施設は道路や公園、河川など公共用地の地下を活用できるので、経済的かつ早期に大規模な整備ができるという利点がある。
東京の地下調節池12件のうち9件は「地下箱式」といって、地下に設置した巨大な箱型の貯水施設。そして残る3件が、長大な地下トンネル内に洪水を貯留する仕組みの「地下トンネル式」である。
現在のところ稼働している東京の「地下トンネル式」調節池は、神田川・環状七号線地下調節池、古川地下調節池、白子川地下調節池の3つ。
そして今回、工事現場を見学する「環状七号線地下広域調節池(石神井川区間)工事」は、白子川地下調節池と神田川・環状七号線地下調節池とを連結する、約5.4キロメートルの地下トンネルで、2028年の竣工を目指している。
「環状七号線地下広域調節池」全体の計画は非常に大きいため、その工事はいくつかに分けられている。
(1)神田川・環状七号線地下調節池:2007年(平成19年)竣工。杉並区〜中野区の環状七号線地下で、神田川と支流の妙正寺川、善福寺川の洪水を取水し溢水を軽減するために運用中。内径12.5メートル、延長約4.5キロメートル、貯留量約54万立方メートル。
(2)白子川地下調節池:2018年(平成30年)竣工。練馬区の目白通り地下で、白子川と石神井川の洪水を取水し溢水を軽減するために運用中。内径10.0メートル、延長約3.2キロメートル、貯留量約21万立方メートル。
(3)環状七号線地下広域調節池(石神井川区間):現在工事中の、上記(1)と(2)の連結区間。中野区〜練馬区の環状七号線および目白通り地下。内径12.5メートル、延長約5.4キロメートル、貯留量約68万立方メートル。
このそれぞれが「環状七号線地下広域調節池」の一部なのだ。
ふう〜。読んでる皆さん、ついてきているだろうか?
さらに言えば、上記の(1)〜(3)が「環状七号線地下広域調節池」計画のすべてではない。
神田川・環状七号線地下調節池の先に接続するべく設計中の目黒川流域調整池(仮称)を含め、ゴールの東京湾を目指してまだまだ延伸していく予定。すべて完成するのは数十年先になるという、実に遠大な計画なのである。
まるで異世界に迷い込んだように感じる圧倒的光景
見学会の集合場所に指定されたのは東京都中野区、西武新宿線の野方駅からほど近い、フェンスに囲まれた工事現場内の建物だった。ここは東京都第三建設事務所が管轄する、大成・鹿島・大林・京急建設共同企業体の作業所。
すでに完成して稼働している地下トンネル、神田川・環状七号線地下調節池の末端近くで、「発進立坑」という大きな縦穴が穿たれている現場だ。工事中のトンネルは、地下約50メートルの発進立坑の底を起点とし、環状七号線の地下を北に向かって掘り進められている。
まずは作業所内で、都の職員の方より調節池の概要や役割、トンネル掘削工法などについて一通りのレクチャーを受けた。
そして貸してもらったヘルメットと軍手を装着して、いざ現場へ。
正確な名称はわからないが、置かれている巨大な重機や設備の横を通るだけで、もう胸が高鳴ってくる。
まず誘われたのは、アイボリー&ピンクのツートーンカラーで彩られた鉄骨剥き出しの大きな設備だった。
そこは地下に通じる発進立坑の入り口で、アイボリー&ピンクの設備は地下50メートルの穴の底まで資材を運搬する巨大エレベーターである。その脇には、人員を運ぶための小さなエレベーターも設置されていた。
エレベーターに乗り込むと、係の方が扉をガシャガシャと手動で閉めてくれた。透け透け金網のエレベーターカゴも、かっこよくてテンションが上がる。現場で働いてる人にとっては当たり前なのかもしれないけど、素人の自分には、そんなものがいちいち心に刺さるのだ。
そしてエレベーターを降りた先に広がる地底巨大空間は、近未来を描いたSF映画のような世界だった。
見学隊は一列になり、細い作業員用通路を歩いてトンネルの奥へと進んでいく。
世界最大級という外径13.45メートルのシールドマシンで掘削された、円筒状のトンネルの内径は12.5メートル。
トンネル側面は、“合成セグメント”と呼ばれる1.8メートル幅のリング状の壁が連なっている。鋼材とコンクリートが一体となった合成セグメントは構造的に安定しており、あらゆる方向からの力に対して高い強度を保っているという。
調節池は通常のトンネルと違い、稼働時には内側から強烈な水圧がかかるので、壁面の強度は相当高くなければならないのだ。
合成セグメントが織りなすストライプ模様の壁面が、遠くの方まで延々と続くトンネルの光景は不思議な雰囲気で、異世界に迷い込んだような気分にさせられた。
機械の作動時に流れるメロディは意外な曲
トンネル起点部の壁には、シールドマシン発進式典の際に書かれた東京都議会議員等のサインがあり、「ふむふむ」と思いながら眺める。
少し進むと作業員さんが移動する際に使う自転車の置き場があった。5キロメートルを超えるトンネルの現場だから、ちょっとした移動にも自転車が便利なのだろう。
ちなみに、この広い地下現場で、同時に働いている作業員は20人ほどという。意外な少なさだが、あらゆる面で機械化・自動化が進んでいるので、作業する生身の人間の数は抑えられているのだろう。
さらに先へ進むと、向こうから資材を運搬する自動運転の台車がやって来た。一旦停止のゲートが作動するとき、聞き覚えのあるメロディが流れた。水戸黄門のテーマ曲『ああ人生に涙あり』である。
ほかにも見学中に見かけた機械類からは、注意喚起のためであろう、作動時にメロディが流れたが、『ルパン三世のテーマ』や、お約束の中島みゆき『地上の星』だったりして面白い。
いくら言葉を尽くしても足りぬほど、プロジェクトの壮大さを感じる現場だった。見学中はずっと、案内役の職員さんがていねいな解説をしてくれたが、僕は途中から目の前の光景に圧倒され、話を追いきれなくなっていた。
ただ漫然と思っていたのは、自分が立っているこの場所が、工事完了後のいつの日にか、濁流の中に沈むのかということ。――想像すると、背筋がゾクッとした。
目に見えず意識することも少ないが、大切な防災インフラ
かつて農村地帯だった東京23区域西北のこの辺りは、吉祥寺の井の頭池を源とする神田川を筆頭に、いくつもの中小河川が流れ、田んぼや畑の用水並びに水運のため活用されてきた。
しかし近代になって都市化が進むと、降った雨はコンクリートの地面に染み込まず、川にどんどん流れ込むようになり、洪水が起こりやすくなった。東京都は川の幅を広げたり深くしたりするなどの対策を講じてきたが、より効果的な方法を模索し、治水政策の中心は調節池の建造へと移った。
さらに近年になると、気候変動によるゲリラ豪雨も多発するようになったが、環状七号線広域地下調節池のような施設があるおかげで、我々は比較的安心して生活を送れるようになっている。普段目に見えない施設でほとんど意識されることはないが、実はそこで暮らす人々の生活、安全、生命を陰で支える重要な存在。それが防災インフラなのだ。
見学を終えて地上に戻ると、そこにはいつもの東京の風景が広がっていた。行き交う車、忙しそうに歩く人々。あの地下空間を見た後では、こんな地上の平穏がとても尊いものに思えた。