インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工事風景を見学したりして、非日常の体験を味わう小さな旅の一種である。
日常の散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、その素晴らしさを共有することを目的とする本コラム。今回は埼玉県の治水インフラ、荒川第一調節池の周辺を歩いてみた。
インフラツーリズム三種類の楽しみ方
インフラを楽しむのにはいくつかの方法がある。
1つは、施設の管理者が主催する公式の見学ツアーに参加する方法だ。通常は立ち入り禁止の施設裏側に入れたり、主催者からさまざまな情報を聞いたりすることができるので、ディープなインフラ体験をすることができる。ただ、いかにも社会科見学的で、ちょっとお勉強くさくなってしまうところがデメリットかもしれない。
2つ目は、観光地のようになっている一般に開放された施設を自由見学する方法。ダイナミックな景観を形成するダムや橋などの巨大インフラは人気スポットになっていることが多く、大抵はこのパターンで見学する。
いつでも好きなときに訪問できる気楽さはありがたいが、独自の視点や目的を持っていないと単なる物見遊山となってしまい、学びや気づきが少なくなってしまうので注意が必要だろう。
そしてもう1つは、特に観光地となっているわけでもない施設をターゲットとし、散歩がてらの気分で勝手に見学するパターン。街に溶け込んでいる施設に特別な意義を見出し、能動的に愛でる方法であり、難易度はやや高い。だがもっとも趣のあるインフラツーリズムと言えるのではないかと思う。
今回の荒川第一調節池は第3のパターン。
ここは市民の憩いの場として親しまれてはいるが、特に人気の観光名所というわけではない。平日の昼間に訪れると、犬の散歩やジョギングをしているご近所の人しか見当たらないようなのどかな場所。穏やかな雰囲気の中、あれこれ思索しながらの散策はなかなかいい気分だった。
暴れ川の水害に悩む人々のために計画された治水インフラ
奥秩父に源を発する荒川は、埼玉県から東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川。水系の流路延長は173km(国内18位)、流域面積は2,940km(同19位)におよび、河川敷を含めた最大川幅は日本最大の2,537mを誇る、非常に立派な川である。
荒川の川岸には古くからたくさんの人々が暮らし、農業を営んできた。しかしその名が示す通り大変な暴れ川として知られ、寛保2年(1742年)、安政6年(1859年)、明治43年(1910年)、昭和22年(1947年)、昭和49年(1974年)、昭和57年(1982年)などたびたび大氾濫。周辺の住宅や田畑に浸水し、住民は甚大な被害を受けてきたという。
埼玉県のさいたま市桜区から戸田市の荒川左岸に位置する「荒川第一調節池」は、そうした荒ぶる川の治水対策として計画された、全長8.1kmの巨大インフラである。
計画の全体像は、荒川周辺に5つの調節池を設置するというものだが、現在のところ稼働しているのは、1997年に完成したこの第一調節池のみ。第二・第三の調節池は、第一調節池のすぐ下流にて目下建設中(2018年着工)で、2030年の完成を目指している。第四・第五の調節池も、いずれ着工の予定なのだそうだ。
洪水時には3,900立方メートル(25mプール130,000杯分!)もの水を貯める能力を持つ荒川第一調節池のうち、平時も1,060立方メートルの水を湛える貯水池部分は、埼玉県の愛称である「彩の国」にちなみ“彩湖”と命名されている。
湖の周りには、各種スポーツやヘラブナ釣り、バーベキュー、ピクニックなどが楽しめる公園、散策路なども整備。湖自体も、立ち入り禁止の「自然保存ゾーン」以外は「親水ゾーン」とされ、たくさんの人がウィンドサーフィンやカヌーといったウォータースポーツを楽しんでいる。
彩湖が荒川第一調節池の一部だということはわかる。
ではどこからどこまでが荒川第一調節池なのか――というのがつかみにくいが、どうやら今、自分が見渡しているあたり全域ということらしい。もしも荒川が荒れ狂った場合、公園を含む広大な河川敷全体が水の底に沈む。増えた水をここにしっかり溜め込むことによって、荒川の堤防決壊を防ぐというのが、調節池の役割なのだ。
ある夏の日の昼下がり。
そんな重大使命を担う地、荒川第一調節池の中を一人歩いてみた。
彩湖をぐるっと巡る歩行者専用道路をひたすら歩く
彩湖に隣接する公園の駐車場に車を置き、まず向かったのは「彩湖自然学習センター」。
5階建ての同センターには、荒川の周囲に生息する動植物の解説展示とともに、荒川治水の歴史と調節池の仕組み・役割などがパネルで示されていた。
前段で述べた荒川と調節池に関する知識は、ここで手っ取り早く吸収したものである。
上階や屋上は展望フロアになっていて、彩湖を見渡すことができた。
どこのフロアに行っても人っこ一人見当たらず、貸切状態だと思っていたら、展望室になっている5階に、彩湖と湖にかかる橋をゆっくりと眺めているおじさんが一人いた。
こんなド平日の昼間に、何をやっているのだろう。
こっちも人のことを言える身分ではないが。
彩湖自然学習センターを出て、湖のほとりに立つ。
天気はいまいちだったが、いい風が吹いていて、ウィンドサーファーが気持ち良さそうに水を切っていた。
彩湖にまたがる2つの橋のうち、大きいほうは幸魂大橋(さきたまおおはし)という名で、荒川第一調節池を建設中の1992年に架けられたもの。国道298号と東京外環自動車道が通っている。
橋の下をくぐって彩湖沿いの道を歩いていくと、土手の上に歩行者専用道路が伸びている。遠くに大きな水門が見えるので、そこを目指すことにした。
歩き始めてすぐ、左手に鉄骨と通路や階段がむき出しの建物が見えてきた。
工場マニアにも好まれそうな無骨な外観に見惚れつつ、学習センターでもらったパンフレットのマップで調べてみると、「荒川水循環センター」という下水道施設だった。ここもなかなか素敵なインフラなので、また別の機会にゆっくり訪問してみよう。
水門LOVE
歩みを進めると徐々に近づいてくる煉瓦風タイル張りの大きな水門は、荒川第一調節池から荒川に水を流すための排水門。
その手前にあるやや小さめの水門は、彩湖の最下流端に位置する水位調節堰で、調節池の水位を細かくコントロールしているそうだ。
荒川第一調節池排水門は目前まで近づくことが可能。そのスケールの大きさを肌で感じることができた。
ここを折り返し地点として彩湖の反対側に回り、また歩行者道路をひたすら歩いていく。荒川の本流と彩湖に挟まれたこの道は、未舗装路。一度だけジョギング中の人とすれ違ったが、それ以外は前にも後ろにも誰もいない。
少し寂しくなってきたので、スマホで音楽を鳴らしながら歩いたが、誰にも迷惑がかからないような場所だった。
やがてまた道が舗装路になったころ、背後から車が近づいてくる音が聞こえた。狭い歩行者専用路になぜ? と思って振り返ると、屋根に赤色灯を灯した施設のパトロール車だった。
道の真ん中をてくてく歩く僕を驚かさないように気づかってくれたのか、最徐行で静かに走っているので道の端に避けると、運転していた職員さんはにこりと笑いながら会釈して追い抜いていった。
左手に広がる荒川河川敷のゴルフ場を眺めながら再び幸魂大橋の下をくぐると、左前方の遠くに、また別の大きな水門が見える。Googleマップで調べてみると、あれは「さくらそう水門」というらしい。
そちらに向かってみることにした。
さくらそう水門があるのは、さっき見学した水位調節堰と荒川第一調節池排水門の反対側、彩湖の最上流端である。近くにある昭和水門とともに、荒川の支流である鴨川の水をコントロールし、荒川本流に流れ込む水量を調節しているのだそうだ。
彩湖ができる以前からこの地域の治水に大きな役割を果たしてきたこれらの水門は、現在も荒川第一調節池の一部として稼働している。
それにしても、水門というのはなぜこんなにかっこいいんだろう。惚れてしまいそうだ。
彩湖を中心に荒川第一調節池をぐるっと散策するのにかかったのは2時間ほど。アップダウンは少なく、緑に囲まれた散歩道は心地よく、我が身の来し方行く末に想いを馳せ、悲しんだりするのにちょうどいい時間だった。
駐車場脇の看板に止まっていたカラスに別れの挨拶をして、僕は帰路についた。