2月に開催されたヒストリックカーイベント「第12回 ノスタルジック2デイズ」(Nostalgic2days)には、1950年代に日本と西ドイツで生まれた“超”個性的なマイクロカーが展示してあった。これらのクルマが誕生した背景を紹介しつつ、なぜこのような形のクルマが登場したのかについても考えてみたい。
初期の軽自動車の立ち位置を示す革命作
まず紹介するのは「フジキャビン」だ。時代を超越した流線型をまとうこのクルマを語るには、第2次世界大戦直後の日本車の状況からお伝えする必要がある。
戦後、復興への足がかりをつかもうとしていた日本。国民の間では、安価で便利な乗り物の登場が望まれていた。こうした思いに反応するように、国もルール制定に動いた。その結果として1949年に誕生したのが「軽自動車」という規格だ。
ただ、当時の軽自動車は全長2.8m、全幅1m、全高2m、排気量150cc以内という、2輪車を基準にしたような規格だった。そんな声が届いたのか、翌年には2輪と3/4輪の規格が分けられ、後者は全長3m、全幅1.3m、排気量300cc以内に拡大。続く1951年には排気量が360ccとなった。この規格が1976年まで続いた。
日本初(もちろん世界初)の軽自動車は、1951年に名古屋市の中野自動車工業が送り出した「オートサンダル」というクルマだ。1953年には、横浜市の日本軽自動車という会社が、自社の頭文字をとって「NJ」と名付けた軽自動車を登場させる。同社は1955年に「ニッケイタロー」という新型車も発表した。オートサンダルともども、当時の軽自動車の立ち位置が想像できる車名だ。
フジキャビンを作ったのは、東京の富士自動車という会社だ。同社は1947年、大戦中に軍用機の生産に関わっていた立川飛行機の技術者などが集まって誕生。家具と自動車ボディ架装がもともとの仕事だったが、途中でエンジンの生産を行う東京瓦斯電気工業を吸収した。
その富士自動車にやってきたのが、日産自動車のエンジニア・富谷龍一である。戦前から自動車用シートやカーペットを手がけていた彼は、日産のボディを製作していた住江製作所が1954年に発表した軽自動車「フライングフェザー」の設計者だった。
車名が示すように、空に舞う羽根のように軽いクルマを目指したフライングフェザーは、梯子型フレームや鉄製ボディを用いながら、車両重量425キロを実現していた。しかし、エンジニアにとっては不満が残ったようで、翌1955年に登場したこのフジキャビンでは、大戦直前に日本で製造が始まったばかりの「FRP」(繊維強化プラスチック)を使ったフレームレスのモノコック構造を採用し、車両重量はなんと、2輪車並みの150キロに抑えていた。
丸みを帯びたボディとした理由は卵の殻と同じ原理で、軽く薄いパネルで剛性を確保するため。初期型はドアが左側にしかなく、運転席へのアクセスを考え、助手席は後方に固定してあった。右側にもドアがある展示車両はマイナーチェンジ後の車両だ。
後輪直前に積まれるエンジンは121ccで、最高出力はわずか5psだったが、最高速度は時速60キロと、高速道路がまだ存在しない当時の道路では十分な性能だった。ただし、手作業によるFRPボディの製作に手間がかかったこともあり、約2年の生産期間で台数はわずか85台にとどまった。富士自動車はその後、4輪軽自動車の生産に乗り出そうとするも実現には至らず、コマツ(小松製作所)に吸収されている。
フジキャビンと同じ1955年には、スズキが日本初の前輪駆動車でもある「スズライト」を発表。3年後には、スバルが航空機づくりの経験をいかした「スバル360」を発表した。この2台の軽自動車に共通していたのは、4人乗りだったことだ。
敗戦から10年が経過し、復興を実感しつつあった人々は、ファミリーカーとして使えるスズライトやスバル360に豊かさを感じた。身近な足として生まれたフライングフェザーやフジキャビンなどは急速に存在意義が薄れてしまい、相次いで生産終了に追い込まれてしまったのである。
バブルのはるか前に生まれた「バブルカー」
では、もう1台のツェンダップ「ヤヌス」はどうか。実はこちらも、第2次世界大戦に敗れた当時の西ドイツやイタリアが、復興への足がかりをつかもうとする中で、安価で便利な乗り物を望んだ結果として生まれた。
ヤヌスも属するマイクロカーという車種は、スクーターにキャビンを付けたような成り立ちであることから「キャビンスクーター」、あるいは泡のような丸いボディが多かったことから「バブルカー」とも呼ばれた。
代表的な車種としては、イタリアの冷蔵庫メーカーであるイソが発売し、後にBMWがライセンス生産を始めて有名になった「イセッタ」(小さなイソという意味)や、大戦中に戦闘機の設計で名を馳せたメッサーシュミットが開発した、戦闘機のコクピットにタイヤを付けたようなスタイリングの「KR175/KR200」などがあった。
ツェンダップは1917年に設立されたモーターサイクルのメーカーであるが、第2次世界大戦前からクルマの生産に挑戦していた。1932年に生まれたヤヌスの試作車を設計したのは、あのフェルディナント・ポルシェだった。
左右だけでなく前後も対称とした理由
ヤヌス試作車は、後に登場するフォルクスワーゲン「ビートル」の原型ともいえる内容を備えていた。形式こそ異なっていたもののエンジンはリアに搭載し、車体中央に太い背骨のようなバックボーンフレームを据えたプラットフォームを採用していたのだ。ただ、この試作車は残念ながら量産に至らなかった。
大戦中は軍用サイドカーの生産に従事したツェンダップだったが、戦後はモーターサイクルの生産を再開。しかし、前述のように安価な4輪車が求められていたことから、航空機メーカーのドルニエによる試作車「デルタ」の設計を買い、念願だった初の市販4輪車としてヤヌスを1957年に送り出したのだ。
特徴は何といっても、左右だけでなく前後まで対称のスタイリングだ。前向きと後ろ向きの2つの顔を持つ古代ローマの門の神「ヤヌス」に由来する車名にも納得である。ドアは前後にあり、2人掛けのシートを背中合わせに置いた4人乗りだった。ただし、ステアリングやペダルは一方にしかない。モーターサイクルから流用した250cc単気筒エンジンは、前後のシートの背もたれの間に置かれた。
ドアや窓、シートを前後左右で共用できることは、コストダウンに貢献しただろう。それを含めて、ドイツ人ならではの合理主義が随所に見られるクルマだった。しかし、販売台数は翌年にかけてわずか7,000台にとどまり、ツェンダップは工場をボッシュに売却し、クルマの生産から撤退した。
ヤヌス不振の理由はビートルにあった。戦争中はヒトラーの指示で軍用に回されたものの、大戦終了の年に民間向けの販売が始まったビートルは、信頼性の高さ、作りの良さ、広い室内、高速道路を巡航できる性能など、あらゆる面でキャビンスクーターとは段違いの完成度を持ち、復興から成長へ向けて歩み始めた人々から熱狂的に支持された。日本におけるスズライトやスバル360のような存在だったのである。
では、なぜフジキャビンやヤヌスのようなクルマが生まれたのか。敗戦直後という、全てを失ったような社会の中で、快適性や安全性などよりもまず、多くの人に移動手段を提供したいというピュアな気持ちが、こういったクルマを生み出すピュアな発想につながったのではないかと私は思っている。
しかも、この時期のマイクロカーの多くは、クルマづくりの経験がほとんどない会社によって生み出された。それらの会社が、クルマづくりの常識にとらわれずに理想を追い求めたことも、並外れた個性につながった理由なのではないだろうか。
紹介した2台は、クルマとしての成功作とは言えないけれど、危機的状況の中で生まれ、その後のクルマに大きな影響を与えた存在である。1959年に誕生した「ミニ」は、中東戦争によるオイルショックを契機に、経済的な小型車を生み出すべく開発がスタートしているし、世界初のハイブリッドカーであるトヨタ自動車「プリウス」は、1990年代になって表面化してきた地球環境悪化に対するひとつの回答になるなど、似たような状況の中でその後のスタンダードを確立した車種もある。
新型コロナウイルスの感染拡大が続く現在もまた、危機的な状況である。しかし、私たちはいつか、この戦いを終え、復興へ向けた道のりを歩き始められると信じている。そんなとき、フジキャビンやヤヌスのような個性的な乗り物が再び登場してくる可能性はあるし、そういうクルマが社会を活性化してほしいと願っている。