新しいキャリア、新しい場所…。新しいことにトライするには、苦難や苦労がつきものです。ただ、その先には希望があります。

本連載は、あなたの街の0123でおなじみの「アート引越センター」の提供でお送りする、新天地で活躍する人に密着した企画「NewLife - 新しい、スタート -」。

第27回目は、プロゲーマーの梅原大吾さんにお話をうかがいました。

  • 第27回目は、介護職員からプロゲーマーに転身を遂げた「梅原大吾」さん

Pro Gamer
格闘ゲーム界のカリスマとして
世界の頂点に君臨

国内では“ウメハラ”、海外では“ビースト”のニックネームで崇められている日本人初のプロ格闘ゲーマー・梅原大吾さん。2010年にプロゲーマーになって以来、格闘ゲーム界のカリスマとして世界の頂点に君臨しています。

  • © Maruo Kono / Red Bull Content Pool

しかし、eスポーツという言葉がまだなかった幼少期や若い頃は、ゲームの魅力にとらわれながら悩み多き毎日を過ごしてきたそうです。

好きなことを極めた梅原さんの人生は波乱に満ちていました。

Beginning
衝撃的だった『ストリートファイターII』との出会い
青春はゲーム一色に

梅原さんとゲームとの出会い。それは小学校に入学する前、ファミリーコンピュータが最初でした。

7つ離れた姉から、クリスマスプレゼントに買ってもらおうと誘われまして。

初めてプレイしたソフトは『スーパーマリオブラザーズ』でした。


ゲームとの距離がぐっと近づいたのは、小学5年生のとき。レンタルビデオ店に足を運ぶと、アーケードゲームが目に飛び込んできました。

当時、アーケードゲームがブームを巻き起こし、ゲームセンターだけでなく、町の駄菓子屋や本屋などにも設置されていたそうです。

「アーケードゲームが、おもしろいらしい」と噂で聞いていましたが、実際に見ると画面が大きく、グラフィックもとてもきれいで。

その日はビデオを借りてすぐに帰りましたが、プレイしてみたいと、気になって仕方なかったです


衝動が抑えられず、親に内緒でレンタルビデオ店を訪れるようになった梅原さんは、次第にアーケードゲームにハマっていきます。

「最新のゲームがしたい」。熱っぽく語ると、同級生が近所の駄菓子屋に連れて行ってくれました。そこにあったのが、大人気だった『ストリートファイターII(以下、ストII)』。ゲームへの没頭を決定付けた瞬間でした。

これはすごいと。それからは『ストII』ばかりをやるようになりましたね。

お小遣いや本を買ってもらった後のお釣りなど、子どもながらに自由に使えるお金はゲームに注ぎ込みました。


  • 11歳の頃の梅原さん
    写真提供:Cooperstown Entertainment

それから梅原さんはバスや電車に乗って隣町まで遠征するように。より強い対戦相手に挑み、腕を磨いていきました。

今ではスマホで見知らぬ人とゲーム対戦ができるのが当たり前ですが、当時はインターネットが普及していない時代。例えば、将棋やスポーツをやるにも誰かを誘ったり道具を揃えたりしないといけないですし、勝負事はセッティングに手間がかかるものです。

でもゲームなら、ゲームセンターに行くだけで、その場にいる人とすぐに対戦ができ、見ず知らずの相手とも勝負できる。それがとても画期的でしたし、ものすごく刺激的でした


中学2年生から22歳になるまでの8年間、ゲームセンターに行かなかったのは元旦と大晦日の2日くらい。四六時中ゲームのことを考え、まさにゲーム一色の青春でした。

親には心配され、友だちには見放されていたと自嘲気味に笑いますが、このゲーム三昧の日々が礎となり、後に世界を驚かせることになるのです。

Period
世界チャンピオンの憂鬱
ゲームに終止符を打つ

梅原さんは、16歳のときに全国大会に出場します。

ゲーム雑誌『ゲーメスト』を買って応募しました。各地のゲームセンターで予選を行い、本選に残った500名がトーナメント形式で優勝を争う、カプコン公認の大会です。

出場者は高校生や大学生が多く、僕は最年少でした。


結果は、見事優勝。にもかかわらず、複雑だったと当時の心境を明かしてくれました。

喜びと同時に虚しさもありました。ゲームマニアの間では知られる存在になったものの、ゲームに興味のない一般の人たちは誰も僕を知らない。

日本一になっても身の回りの世界が何も変わらなかったことにショックを受けました。


ただ、その後もゲームセンター通いは続いたそうです。さらに経験を積み、その腕前は厚みを増していきました。そして翌年、初の世界大会出場を果たします

『ストリートファイターZERO3』のゲーム発売に際し、ポスターが全国に配布されました。そこには全国大会の日付が記載され、優勝者がアメリカ・サンフランシスコで行う日米対決の模様がテレビ放映されると大々的に告知されていたのです。

ゲーム発売前のPRとしては過去に例を見ないものでした。


世界一になれば、今度こそ人生が変わるきっかけになるかもしれない。

梅原さんは期待に胸を膨らませ、自身のキャリアの中でも三本の指に入ると自負するほど、ゲームに明け暮れました。学校が休みの日は、開店から閉店までゲームセンターに入り浸り、ときには対戦相手を探し、秋葉原から高田馬場や新宿までゲームセンターを“はしご”しました。

予選を勝ち抜き、関東大会、全国大会へと順調に勝ち進み、またしても優勝。日米対戦が行われるアメリカ・サンフランシスコ行きの切符を手にしたのです。

日米対戦では時差ボケで睡眠不足だったうえに、現場の雰囲気は超アウェイ(笑)。

ギリギリ勝つことができましたが、あの環境でよく勝てたと思います。


重要な局面で踏ん張りがきくのは、普段の練習量の賜物と胸を張ります。

あれだけゲームセンターに通って練習を重ねていると、劣勢であったとしても「負けちゃいけない」と最後まで気持ちが残るんです。

よく「練習は裏切らない」といわれますが、僕からすれば「練習を裏切れない」という感覚です。


けれど、現実は梅原さんの期待通りにはいきませんでした。世界チャンピオンになったものの1mmも変わらない日常に梅原さんは絶望します。

これで何も変わらないことが証明されてしまったわけです。やっぱりゲームは趣味でしかないんだなと。


自分は何をして生きていくのか、人生について真剣に向き合い始める年頃。突然、とてつもない不安に襲われたと振り返ります。

ゲーム仲間には大学生もいて、すごく輝いて見えて羨ましかったんですが、今さら勉強ができるはずもなく、高校卒業後はフリーターになりました。

もはやゲームセンターにしか居場所がなかったので、やめたくてもやめられないといった感じでゲームセンター通いは続けていましたね。


  • ゲームセンターに通っていた頃の梅原さん
    写真提供:Cooperstown Entertainment

ゲームセンターにしか居場所がない。没頭の副作用か、ゲームという共通の趣味を持たない人たちとのコミュニケーションに自信を失い、仕事選びにも苦労したそうです。

当時は「オタク」というのはネガティブな称号だったので、ゲームを好きでない人たちからどう思われるのか常にオドオドしていましたね。

まずは食品工場での作業やポスティング、ティッシュ配りから始めました。


特にやりたい仕事が見つからず、アルバイトを転々とする日々。梅原さんは22歳になっていました。

社会に馴染む訓練として飲食店で働いていたのですが、同級生が卒業や就職で辞めていく中、自分にはその予定がない。

人生が切り替わる時期なんだと認識できたので、その年の7月にアメリカで開催される世界大会に出場してゲームをやめようと決意したんです。


それが今や伝説の試合と語り継がれている「背水の逆転劇」をみせた「Evolution Championship Series(EVO)」です。

このときは「負けちゃいけない」というより、土壇場で何かが起こるかもしれないと自分だけ気づいている状況にワクワクしていました。

狙い通りに決まりましたね。


会場のボルテージは最高潮。4タイトルに出場し、2タイトルで優勝、1タイトルで準優勝の輝かしい結果を残しますが、意思は揺らぎませんでした。アメリカから帰国した梅原さんは、ゲームに終止符を打ちました。

Comeback
雀士から介護職を経て、まさかの復活
日本人初のプロ格闘ゲーマー誕生!

ゲームをやめ、次に選んだのは麻雀の道。

サラリーマンは自分には務まらないと思っていたので、ゲームで培った勝負勘を活かそうと麻雀を選びました。

ルールは知っていたのですが、最初はめちゃめちゃ弱かったです(笑)。


いずれプロになろうと3年ほど雀荘勤務を続けると、その腕前はめきめきと上達。しかし強くなるにつれ、気持ちに変化が生じていったそうです。

勝った際に他の人から恨みを買うようなこともあって……。一生続けるのは厳しいなと感じるようになりました。


「あとになって思えば、結局そう諦めがついたのはゲームのように死ぬほど好きではなかった」と語る梅原さん。3年の時間を費やした麻雀をスパッとやめてしまいます。

このとき26歳。さすがに精神的につらかったと苦笑いします。

職歴はアルバイトだけ。履歴書に書くことがなくて恥ずかしかったです。ゲームに没頭していた過去の自分を恨みましたね。

生きるだけでつらい。もっと親も注意してくれたらよかったのにと逆恨みまでしていました(笑)。


そんなどん底の最中で始めたのが、介護の仕事でした。

両親が医療機関で働いていたこともあり、介護職は子どもの頃から馴染みがありました。

勤めたのは認知症の方を介護する施設ですが、直接お礼を言っていただける仕事に就くのが初めてだったので、嬉しかったですね。しかも、勤務時間が朝から夕方までと決まっていたので、自分の時間が持て、それもよかったです。

僕にとっては、初めての安定したしかももっと頑張ろうと思える仕事でした。


ようやく見つけた、やりがいのある仕事。しかし、ゲームの神様が梅原さんを放っておきませんでした。

その年に新作ゲームが発売され、ゲーム仲間から「一緒にやろう」と誘われたんです。もうゲームには未練がなかったのですが、あまりにもしつこくて(笑)。

後にも先にも、一回だけ付き合うことにしたんです。


久しぶりのゲームは、いろいろなものを思い出させたそうです。

ゲームのおもしろさを改めて実感しました。それに、ブランク明けでも勝てたので、地に落ちていた自尊心が回復したんです(笑)

そういえば、自分にも得意なことがあったなと。


自分を肯定できるのなら、趣味として軽くやるのも悪くない。「ゲームをやるなら100%熱中する」とのポリシーを掲げていた梅原さんですが、考え方を変え、介護の仕事の傍らでゲームをゆるく再開することに。

すると、この小さなニュースが海外に伝わり、2009年、ビッグオファーとして返ってきました。

アメリカでのエキシビションマッチに参加してほしいとオファーを受けました。日米韓のチャンピオンが戦う三つ巴が予定されていたそうですが、僕が加われば四つ巴に変更すると。

もう何年も特別扱いされることなんてなかったので、必要としてもらえるならと快諾しました。


その実力は錆びることなく、世界トップクラスの大会で、梅原さんは各国のチャンピオンたちを圧倒。すると、ここで変化の兆しが訪れました。

復活劇を見ていた企業がスポンサーになると名乗り出てくれたんです。どうやら、僕が生活を理由にゲームをやめたことを知っていたみたいで。

だったら、自分たちがお金を出してゲームをやらせてあげようという話になったみたいなんです。


ただ、梅原さんはすぐには首を縦に振りませんでした

今まで何も変わらなかったのに、初めて日本一や世界一になったときと何が違うのか、納得いかなかったんです。プロとしてゲームで生きていくのが難しいのは自分が一番わかっていましたし。

でも、今のマネージャーに説得されて、とりあえずやってみることにしました。やらなかったら後悔する、やっても後悔するかもしれない。だったら一生に一度の自分の人生ですから、やってみようと


『ストII』に衝撃を受けて約20年。
ついに日本人初のプロ格闘ゲーマー・梅原大吾が誕生したのです。

Belief
何かを成し遂げるには、犠牲を厭わない
これからも「1日ひとつだけ、強くなる」

プロゲーマーになった梅原さんは「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネスブックに認定されました。勝つ秘訣は「知識を持っているかどうか」と力を込めます。

ゲームの世界では、知識が最強の武器。ただ、インターネットで調べたり、人に聞いたりすれば簡単に手に入る知識だけでは不十分です。

試行錯誤しながら、まだ誰も気付いていないことを発見し、オリジナル知識として蓄えていくことが大切です。その積み重ねが差になります。


「1日ひとつだけ、強くなる」を自らに課し、小さな成長を実感できるように自身のモチベーションを管理しているそうです。

ほとんど勝率には影響しない些細なことでも構わないので、練習した意味を感じられれば、明日につながります。

練習をサボらないよう、努力するための栄養剤みたいなものです。


あらゆるタイトルを総なめした今なお知識の習得には貪欲。他の人がやっていないような練習メニューを積極的に取り入れつつ、ほんの少しでも昨日より強くなることを目指して前向きにゲームに取り組んでいます。

長く続けるのが目標です。老いに抗い、50代や60代になっても最前線を走っていたいですね。


eスポーツの人気が定着し、若い世代を羨ましく思う気持ちもあるそうですが、開拓者としての自負も覗かせました。

勉強や部活動、遊びなど、普通の人なら手放さないものを犠牲にしてきたからこそ、今の自分に辿り着いたように思います。もし、好きなことを極めたいのなら、自分には必要のないものを見定めて手放し、その分のリソースをすべて注ぎ込めばいい。

取るべき手段は難しいものではありません。もちろん、僕みたいに大変な目に遭うかもしれませんが(笑)。


何かを成し遂げるには、捨てる勇気が求められる。ゲームに人生を捧げ、プロゲーマーの座を射止めた梅原さんの言葉には、並々ならぬ覚悟から生まれる説得力が宿っていました。

  • インタビューの様子をYouTubeでも公開中
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Photo:伊藤 圭

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