新しいキャリア、新しい場所…。新しいことにトライするには、苦難や苦労がつきものです。ただ、その先には希望があります。
本連載は、あなたの街の0123でおなじみの「アート引越センター」の提供でお送りする、新天地で活躍する人に密着した企画「NewLife - 新しい、スタート -」。
第19回目は、元アクション女優の志穂美 悦子さんにお話をうかがいました。
Turnover
女優を引退して約30年、
現在は花創作家に転身
「花を触っていると癒やされて、エネルギーをもらえるんです。」
昭和の映画界を牽引した日本初のアクション女優、志穂美 悦子さん。人気絶頂時の結婚を機に芸能界を引退してから約30年、現在は花の魅力に目覚め、花創作家として活動しています。
これまで数々の夢を叶えてきたことに対し、「運が良かった」とも振り返りますが、それらを引き寄せたのは内に秘める“強い思い”でした。
Background
テレビドラマのアクションに魅了され。
厳格な父を納得させた誠実さ
中学2年生のときにドラマ『サインはV』を観たことがきっかけで、「女優」という職業に興味を持ちました。 |
ぼんやりと将来を考え出す年頃。選択肢のひとつに「女優」を意識するようになってから間もなく、あるテレビドラマが10代の志穂美さんに強烈な衝撃を与えました。
その番組が、アクションドラマ『キイハンター』です。
キイハンターが魅せるアクションに引き込まれて。 「私もアクションをやりたい」と、情熱が一気に燃え上がりましたね。 |
幼少期から運動神経抜群で、小学校時代には男子を含めた体力テストにおいても全種目で学年トップに立つほど。中学・高校では陸上部に所属し、さらに脚力を鍛えていたことで自ずと身体が疼いたのかもしれません。
ただ、「当時の日本には、女性のアクションスターがひとりもいませんでした。
「どうすれば、アクション女優になれるのか」。故郷・岡山で悶々としていると、突如、光が差し込んできました。
ある雑誌で、3人の男性がアクションのスタントを修行している記事を見かけたんです。 その場所が東京のJAC(ジャパン・アクション・クラブ)でした。 |
「JACに行けば、アクションを教えてもらえる!」。
勢い余った志穂美さんは、ありったけの思いを書き綴った手紙をJACに送付。後日、オーディションに来てもらいたいと返事が届いたのです。
でも、ここで我に返りました。アクション女優を目指していることも、JACに手紙を送ったことも、家族には一切話していなかったんです。 軍人だった父は特に厳格だったので、芸能界入りを許してくれないだろうと思っていました。 |
恐る恐る打ち明けると、予想通り父親は猛反対。怒られて大泣きしたそうですが、それでも自分の信念を曲げませんでした。
父は「夢の芽を摘むことはしない」と言ってくれて。 高校を卒業してからJACに入るという条件付きでオーディションを受けに行くことは認めてくれました。 |
夢の世界に向かって、ようやく小さな一歩を踏み出せた志穂美さんは喜びにあふれ、オーディションでは熱意を一生懸命に伝えました。
結果は見事合格。JACからは今すぐ入団してほしいとオファーを受けます。
トレーニングに1年くらいの期間を要するので、なるべく若いうちから始めるのが良いと言われまして。 |
オーディション前に交わした父との約束。しかし、JACからの要請に従い、東京の高校に転校し、単身上京する道を選びました。
どうして許してくれたのか、すでに父は亡くなっているので、本心を尋ねることはできません。 昔、父が若かった頃、両親から反対されて夢を断念したという話を聞いたことがありますが、もしかしたら、同じ思いを娘の私にさせたくなかったのかもしれませんね。 |
通信技術が発達していない1970年代、岡山から東京は今より遠く感じられ、芸能界は今よりもっと浮世離れしていました。そんな環境に娘を送り出した心境を、自分が親になってようやく気付いたと言います。
父や母への感謝を口にしますが、両親を納得させられたのは、夢と向き合う誠実さが伝わっていたからに違いありません。
Actress
上京から2年、日本のアクション女優第1号に。
引退まで駆け抜けた女優人生
JACに入団後は、まさにトレーニング漬けの日々。毎週月曜日から土曜日まで、学校が終わる18:30から21:30までの3時間、みっちり稽古が行われました。
カリキュラムが決められていて、殺陣や立ち回りを学んだり、トランポリンで技を覚えたり、手足を縛られた状態で泳いだり、毎日が楽しかったですね。 |
「薄情な娘だった」と笑いますが、初めて親元を離れるもホームシックになることはなく、充実感いっぱいだったのだとか。
好きなことを頑張っていたので、全く苦労と思わなかったです。 できることがどんどん増えるのは嬉しかったですしね。 |
前向きにトレーニングに取り組んだ結果、実力はメキメキと上達。
1973年、『ボディガード牙・必殺三角飛び』で映画デビューを果たし、翌1974年には早くも『女必殺拳』で初主演を飾ります。
上京から、たった2年の快挙でした。
映画『燃えよドラゴン』の世界的ヒットが大きかったですね。 『女必殺拳』では当初2番手の役だったのですが、主演を務める女優さんが降板したことで私に回ってきました。 |
こうして、ついに志穂美さんは日本のアクション女優第1号になりました。日本映画界が盛り上がっていたこともあって立て続けに出演が叶い、22歳までの4年間でアクションをやり尽くしたそうです。
その後は活躍の場を広げ、ドラマ『熱中時代』をはじめ、アクション以外のジャンルのドラマやバラエティ番組にも出演。一見、順風満帆に思えますが、あるときから迷いが生まれます。
さまざまな役を演じていると、女優・志穂美悦子は膨らんでいくのですが、本当の私が実っていない気がしてしまって。 そんなジレンマを抱えながら仕事をしていると、念願だった『男はつらいよ』のマドンナ役を演じることになったんです。 撮り終わって、自分としては「やり切った」という気持ちになりましたね。 |
ちょうどその頃、歌手の長渕剛さんと出会い、結婚。女優業の引退に未練はあったものの、子どもが生まれ、命を預かる責任感が芽生えたことで、子育てと夫のサポートに専念する選択をしました。
アクションに挑戦したときのように、結婚や子育ても私にとっては初めてのチャレンジでした。 本当の私を実らせたいとも思っていたタイミングでもありました。 |
1987年、昭和を彩った日本初のアクションスターは表舞台から去り、ひとりの妻として、母として、新たな人生を歩み始めたのです。
Belief
花創作家として人々を笑顔にしたい。
諦めなければ、また別の扉が開く
時が流れて子育てが一段落つき、出会ったのがフラワーアレンジメントでした。
自由に花を生けるフラワーアレンジメントは奥深く、しっかりと基礎を身に付けたいと考え、教室に通い始めました。 |
花の虜になり、次々と作品を作った志穂美さんは、2010年から1年間の活動の記録をまとめた写真集を自費出版することに。売上の一部を東日本大震災の被災地に寄付しますが、この行動が縁を結びました。
世界遺産の奈良の薬師寺からお声がけいただき、2014年の「聖観世音菩薩に捧げる花展」で奉納しました。 |
さらには、「世界らん展日本大賞(2015年から6年連続)」や「国際バラとガーデニングショウ」に作品を出展。自らを「花創作家」と称し、刀や槍を枝や竹に替え、アクションさながらの魔法のようなライブパフォーマンスを披露しています。
「世界らん展日本大賞2016」での「経(たていと)」や、「世界らん展2020」で展示された「脈動」など、数々の圧巻の作品が来場者を惹きつけるのは、志穂美さんのエネルギーが込められているからでしょう。
そのほか、横浜市元町公園内にある「エリスマン邸」や、長崎県の「ハウステンボス」といった地域のランドマークで装飾コーディネートや特別展示を手がける傍ら、全国各地でワークショップを開催するなど、花創作家として精力的に活動しています。
また、2016年からは東北や熊本地震の被災地にひまわりを届ける「ひまわりプロジェクト」を始動。この取り組みは、2011年に宮城県・七ヶ浜にボランティアで参加したことが発端でした。
2016年、JA長生の方々から3反にもおよぶ畑をご提供いただき、6万粒のひまわりの種を植えたことが「ひまわりプロジェクト」の始まりです。 |
2012年、七ヶ浜の仮説住宅を訪れた際には、ボランティアでフラワーアレンジメントのワークショップも開催しましたが、花を前にした瞬間の人々の表情が忘れられないと涙ぐみました。
「仮設住宅でも花に触れられて嬉しい」「亡くなった夫の祭壇に手向けたい」とパッと笑顔を浮かべられ、花が持つ力の凄さを目の当たりにしました。 |
花を通して世の中を明るくしたい――。
コロナ禍により、予定されていたイベントは中止を余儀なくされていますが、それでも前を向きます。
最近は「そう来るのか!運命!」と考えるようにしているのですが、いずれ「あの自粛期間があったから、今があるよね」と言える過ごし方をしたいと思っています。 風に揺れる柳のように、自分の人生に次は何が起きるのか、しなやかな心構えでいたいですね。 |
実は、2000年に映画の出演オファーがあったそうですが、10年を超えるブランクの不安を払拭できず、断ったと言います。
あのときに断ったからこそ、花創作家の仕事をできているのかもしれませんが、その映画は賞を総ナメにしたのでかなり後悔しました(笑)。 |
この経験があるからか、やりたいことには絶対に挑戦すべきと断言します。
言葉にしたり、行動を起こしたりしている人の熱量は、必ず誰かの心を動かします。たとえ夢への扉が閉じてしまっても、諦めなければ、また別の扉が開くものです。 チャンスには貪欲になって、一歩も二歩も進んでほしいですね。 |
半生を振り返るたび、10代の頃の自分に負けていないかと自問するという志穂美さん。
歳を重ねて柳に例える生き方にシフトしつつも、決して消えない思いの強さがあるからこそ、夢を引き寄せ続けるのでしょう。
アート引越センターは、一件一件のお引越に思いをこめて、心のこもったサービスで新生活のスタートをサポート。お客さまの「あったらいいな」の気持ちを大切に、お客さまの視点に立ったサービスを提供していきます。
協力:TBSキャスティング
Photo:Kei Ito
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