新しいキャリア、新しい場所…。新しいことにトライするには、苦難や苦労がつきものです。ただ、その先には希望があります。本連載は、あなたの街の0123でおなじみの「アート引越センター」の提供でお送りする、新天地で活躍する人に密着した企画「NewLife - 新しい、スタート -」。第12回目は、元自衛官の菊野昌宏さんにお話をうかがいました。

  • 第12回目は、元自衛官の菊野昌宏さん


Background
和時計を現代に復活。
独立時計師の前職は自衛官

そろそろ今日も日が沈む。

江戸時代の「和時計」は、季節によって異なる昼夜の長さを表示し、人々に日暮れや夜明けの刻(とき)を知らせていました。

そんな和時計を現代に蘇らせたのが菊野昌宏さん。スイスにある独立時計師協会に日本人として初めて入会した独立時計師です。ネジ1本から手作りし、ひとりで和時計を作り上げる菊野さんですが、時計メーカーへの就職経験はなく、前職はなんと自衛官でした。

彼はなぜ、独立時計師を目指したのか。その軌跡を追いかけました。


Beginning
上官の機械式時計に衝撃。
雑誌で「独立時計師」を知る

大学や専門学校に進学する意思は無く、高校卒業後の進路について悩んでいた菊野さん。子どもの頃から大の工作好きでしたが、それを仕事にしようと当時は思わなかったそうです。

モノ作りの魅力は、自分で設計図を描いて材料を揃え、自分で作って評価してもらうという、その一連の流れにあると感じていました。そのため、一般的なメーカーでの分業制によるモノ作りには興味がわかなかったんです

  • 幼少期からモノ作りが好きだった菊野さん。全ての工程を自分でできることに魅力を感じていた

自身が理想とする「ひとりで全てを作れるモノ作りの仕事」はほとんどない―。どうしようか迷っていたときに参加したのが、自衛隊の採用説明会でした。

いろいろと職種があるのですが、銃や特殊な装備品を整備する仕事があると聞き面白そうだなと。もともと機械いじりも好きでしたし、何かやりたいことが見つかるまでここで頑張ってみようと思いました

こうして菊野さんは、自衛隊への入隊を決意。基礎的な訓練を行う3ヶ月にわたる研修は過酷なものでしたが、適性を発揮して希望通り、銃を整備する仕事に携わるようになります。

最初の3ヶ月は体力的にも精神的にもきつかったです(笑)。けれど、訓練を続けていると足が速くなったり筋肉が付いたりして成果も実感できました。同期や先輩、後輩もいい人ばかりでしたので、働く環境には恵まれていたと思います

  • 自衛隊時代の菊野さん

しかし、整備の仕事そのものに関しては、どこか物足りなさを感じていました。

銃の整備は誰でもできるようにマニュアル化されています。特定の人しか整備できないようだと、その人がいなくなったときに困りますからね。当然といえば当然なんですけど…

高度な専門技術ではあるものの、創造性の入る余地がない作業を繰り返す日々。そんな中、あるモノとの出会いが運命を動かし始めます。それは、上官が身に付けていたスイス製の機械式時計。菊野さんにとって、昔ながらの機械式時計は馴染みのないものでした。

それまでは自衛隊の売店にある1,000円ほどの腕時計を使っていたんですけど、思わず機械式時計の美しさに見とれてしまいました。こんな小さなスペースに、精細で綺麗なパーツが詰まっているのかと。それからどんどん時計に魅了されていきましたね

時計に対して無頓着だったのが、1本の機械式時計との出会いで一変。自身も機械式時計を買い、時計雑誌を読み漁るように。

ある日、「独立時計師」という、たったひとりで手作業によって芸術的な腕時計を作る人々がスイスにいることを雑誌で知りました

それはまさに菊野さんが考えるモノ作りの理想のカタチ。「独立時計師になりたい」。こう思うまで、たいして時間を要しませんでした。


Passion
江戸時代の情熱に触発されて。
独立時計師協会に日本人として初入会

自衛隊を辞め、北海道から上京。独立時計師になるため、時計修理の専門学校に入学します。

上官からは「食っていけるのか?」と心配されましたが、決心は固かったです。まずは時計の基礎を学ぼうと入学しましたが、休日がいらないと思えるほど毎日おもしろかったですね

授業後も学校に残り、時計作りの研究をしていましたが、学びを深めるほど厳しい現実が見えてきたといいます。メーカーや工房を訪れると、そこには最新鋭の設備がずらり。時計を作りたい気持ちが日に日に増す一方で「これを個人で揃えるのは難しい」、「ひとりで時計を作るなんて無理なんじゃないか」と不安に苛まれるようになりました。そんな折、ある番組との出会いが菊野さんの心に火をつけます。

1850年くらいに作られた万年時計のドキュメンタリー番組を見たのですが、その時計の歯車は手作業で1枚1枚やすりを使って削られていました。江戸時代には現代のような機械はありません。情熱だけで時計を作っていたんだと、感銘を受けました

昔の人にできて、自分にやれないはずはない。覚悟を決めた途端、雑念を振り払うかのようにがむしゃらに時計作りに励むようになったそうです。短い期間で次々に改造時計を完成させていきました。

そして、2010年。一大転機が訪れます。江戸時代の和時計を小型化した腕時計の試作品が、スイスの独立時計師として名高いフィリップ・デュフォー氏の通訳者の目に留まったのです。スイスのアトリエに招待された際、世界最大の時計の展示会「バーゼルワールド」に出展してみないかとデュフォー氏から直接勧められました。

自分の作品はまだ売り物のレベルではない」と思っていたため、ほんの少し迷ったんです。でも、チャレンジしないと後悔すると思い直し、お受けすることにしました

菊野さんは日本人として初めて独立時計師協会に準会員として入会し、2011年春の「バーゼルワールド」に「和時計」を展示。憧れの存在だった独立時計師たちから「和時計」の独特なメカニズムや壮美なデザインを評価され、夢のような7日間はあっという間に過ぎ去っていきました。

  • 2011年春の「バーゼルワールド」で展示した「不定時法腕時計(和時計)」

2011年からは3年連続で「バーゼルワールド」に出展し、晴れて独立時計師協会の正会員に昇格。自衛隊を辞めて8年目での快挙でした。

  • 2013年に独立時計協会正会員になった際の菊野さん


Process
人生というプロセスをどう生きるか。
没頭すれば人は何者にでもなれる

ただ、この2013年は大変な1年だったと振り返ります。というのも前年に作った「折鶴」という作品の出来にどうしても納得できず、売り出すことを断念。収入が無く、貯金を切り崩して生活しなければならなくなりました。

  • 「折鶴」

それで、この年は150万円ほどのシンプルな時計を何本か作ったのですが、やはり自分自身が満足できるものを作りたいという思いが強くなりました

2015年には時計作りを志した原点に立ち戻り、「和時計」の改良版を発表。代表作となり、さらなる自信が芽生えたそうです。今では年に1~3本の時計をじっくりと作り上げおり、現在手がける時計の価格は1,000万円ほど。それでも注文は途絶えません。

  • 2015年に発表した「和時計改」

次なる構想は、針のスピードの違いで昼夜を表示する和時計です。新作を発表するときは、受け入れてもらえるのか未だに恐怖心がありますが、売れ筋に胡坐をかかず、新しい時計を作り続けたいと思っています

モノ作りの過程にワクワクを感じている菊野さんは、そこに価値を見出してもらえるのではないかと考え、納品時には時計作りの一部始終が文章と写真で収められたブックレットを一緒に渡しています。

正確な時計を作るなら機械で大量生産できます。ネジや文字盤、針などを手作業で作るのは、いわば究極的に効率の悪い方法。でも、だからこそ世界にひとつのストーリーが生まれます。それを見えるかたちでお届けすることで、プロセス自体を楽しんでもらえたら嬉しいですね

「プロセスを楽しむ」。時計作りに対する考え方は、菊野さんの生き様と言っても過言ではありません。

人生の結果は決まっていて、みんな最後は死にます。ですので、そのプロセスをどう生きるかが大切だと考えています。すべての職業を体験できるほど人生は長くありません。気になったことには挑戦すべきですし、自分に向いているかどうかがわかるまでは、それまでの価値観をリセットして素直に取り組んでみると良いのではないでしょうか。没頭すれば、何かが見えてくると思います

自衛隊での経験や江戸時代の万年時計に関するドキュメンタリー番組を通して、人は誰も特別ではないと気づいたという菊野さん。多少の得手不得手はあっても能力や資質にはそれほど差は無い。だから、人は何者にでもなれる、と。

がんばれば、その姿を誰かが見てくれている。菊野さんが独立時計師になったプロセスからは、そんな教訓が見つかりました。

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interview photo : Kei Ito

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