二月の朝


スラックスの右ポケットに振動を感じた。最寄り駅の上大岡から職場の品川へ向かう上り電車はこの時間帯が通勤ラッシュのピークで、足のやり場さえも困る満員電車の中、二、三回周りの人に肘打ちしながら何とかスマホを取り出す。
(どうせやり場に困るなら、足じゃなくて目が良いんだけど)
そんな文句を飲み込んでメール通知を開くと、佐奈子からのものだった。

『聞き忘れた 今日晩ごはんいる?』

そういえば伝えていない。今日は残業がほぼ確実だった。

『いい忘れた 今日はおそいから大丈夫』

また周りから睨まれるのも嫌なので、返信が済んだ後もスマホは目的地まで持ったままにすることにした。何とはなしにニュースサイトなど開いてみても、混雑のせいかいっこうに繋がらない。あきらめてふと視線を上げると、荷物置きの網棚の上に並べられた車内広告が目に入った。

『入試問題に挑戦!あなたは解ける?』
『駅から徒歩4分 海を望むタワーマンション』
『家族で楽しむ春の沿線スタンプラリー』

文章など読むはずもなく、所在なくただ視線を向けていただけだったが、ひとつの広告に視線が止まる。

『何度も思い返すはずのその場所を ブライダルフェア』

ウェディングドレスを身にまとった女性が微笑む、結婚式場の見学会広告。女性が着ている青みがかったドレスは胸元より上が露出したいわゆるビスチェドレスで、身体の輪郭をそのままなぞったようなマーメイドラインが続いている。プロポーションもモデル相応で、前かがみのポーズをとるその姿は週刊誌の表紙を飾るグラビアアイドルにも見えてくる。
(…目のやり場にも困ったな。いちおう)
結婚式場の広告なのに胸元を強調するポーズはどうなんだ…などと一応ケチをつけてみても、視線はついつい広告ポスターへ吸い寄せられて、誰が見ているわけでもないのになんとなく周りの目を気にしてしまう。

ふと、佐奈子の顔が浮かんだ。
佐奈子はどんなドレスを着ていただろう。
白いドレスだったと思う。お色直しを一回していたから、あるいは違う色のドレスも着ていたか。
もう十三年も前の話だ。式の詳細なんて思い出せるはずもない。段取りに招待者の決定…準備期間の大変さだけはわりあい思い出せるのだけど。
十年以上も一緒に暮らしていれば、もうお互いがお互いにとっての生活の一部になる。ともすれば無意識になるくらいに。気を使わなくてもいい気楽さはあるが、流行りの歌で歌い上げられるような恋心やときめきとはまったくの無縁だ。
毎日、考えなきゃいけないことはいくらでもある。
誰か一人を想い続けるには、人は忙しすぎるのかもしれない。





『いい忘れた 今日はおそいから大丈夫』

パートに向かうバスの中で、聡からの着信を確認する。
(晩ごはんは一人か)
特にうれしいも悲しいもない。この数ヶ月で、夫婦一緒の夕食なんて数えるほどだ。返信も必要ないからメールアプリを閉じようとして、その拍子にメール着信の履歴画面が目に入った。
たった今確認した聡からのメール、そのひとつ前の着信。

『相田和樹』

思わずぎくりとした。そのメールの内容は、着信を受けた昨晩のうちに確認してある。

『飯塚さん、今日は本当にありがとうございました。また明日あらためてお礼させてください』

職場の後輩――といっても向こうは正社員だけど――からの着信は、やましいことなんて何もないのに、どうも開くのに人目を憚ってしまう。
彼が事務手続きで困っていたから、事務職の自分が手を貸した。それだけだ。その場でもこっちが恐縮するくらいにお礼を言われたのに、帰宅後にメールまでしてくるなんて。 もっとも、今回が初めてじゃない。お昼ごはんに同席されたり、仕事の合間に何かと声をかけられたり。

――狙われてますねぇ、佐奈子さん。

パートの後輩からもからかわれるくらいに、彼の態度はあからさまだった。会話の中でさりげなく旦那の話を出したりしても、その姿勢に変化は見られない。
彼の本心はわからない。仕事のパートナーとして気に入られているだけかもしれない。少なくとも現状は、お互いあくまで職場の同僚として接している。ただ正直、どんな形であれ七歳も年下の男から好かれるのは悪い気はしない。
(浮気じゃないよね、別に)
こっちとしてはどうとも思ってないわけだし…と自分の中で片付けて、スマホをしまおうとした、その瞬間。着信を知らせる振動を感じて、また画面を開く。

『相田和樹』

思わずドキリ、じゃない、ぎくりとした。


スモール・トーク


「飯塚君もあと四、五年で管理職だね、たぶん」

帰りの電車の中、たまたま一緒になった部長に言われたそんな言葉にもまるで実感が湧かない。毎日目の前の業務で手一杯で、役職のことなんて気にしている余裕もない。

「まあ残業もほどほどにね。なんだかんだで金より時間なんだよ、結局。飯塚君くらいの若さならなおさらね」

部長から見たら、三十代後半の自分もまだまだ若造なのだろう。

「家族の時間は持ててる?…スタンプラリーだってさ。旅行とはいかないまでも、こういうところできっかけ作ったりするのはいいんじゃない?気軽にできそうだし」

二人が吊り革をつかんで立っている場所からは、いくつかの停車駅を巡る沿線スタンプラリーの広告がちょうど視線を上げた先に見える。降車乗客数の増加から地域の活性化を狙ったものだろうか、スタンプ設置場所として記載されているのは急行列車が停まらない駅が大半を占めていた。

「意識して時間をつくるのは大事だと思うよ。家族ってちょっと放っておくとお互い冷めきって手遅れになったりするから」

僕みたいにね、と妙に実感がこもった部長の呟きには苦笑いするしかない。

『家族で楽しむ春の沿線スタンプラリー』

景品にアニメのコラボ物が目立つことからも、広告にある「家族」の言葉には多分に子どものニュアンスが含まれている気がする。自分と佐奈子には子どもはいない。夫婦ふたりでやって楽しめるものだろうか。
外と車内の極端な明暗差のせいで、正面のガラスがマジックミラーのように車内の光景をそのまま映し出している。自分と部長。その向こうには、自分に背を向けて立っている名前も知らない人々。
自分の隣に立つ部長は、未来の自分の姿そのものかもしれない。十数年後の帰り道、自分は何を考えているだろう。
仕事のことか、家族のことか。
あるいは、もっと別のことか。





「で?なんてメールだったんですか?」
「いや、普通に。今日ご飯行きましょうって。昨日のお礼も兼ねて」
「…え?じゃあ佐奈子さん何でここにいるんですか?」
「断ったから」

結局自分ひとりのために晩ごはんを準備するのも面倒で、仕事帰りに後輩の亜紀ちゃんを外食に誘うことにした。話の中でつい今朝のメールのことを口走ってしまったら、その食いつきは予想以上だった。

「もったいない。絶対いいお店予約してましたって、それ」
「だって、そんなお礼してもらうほどのことしてないし」
「そんなの向こうがどう思っているかによるじゃないですか。相田さんにとってはそれほどのことだったのかもしれないし…まあ、それだけが理由とは到底思えませんけど」
「いやいやいや。ありえないですって」

パスタを豪快に頬張りながら亜紀ちゃんは力説する。彼氏ができるまで炭水化物は控えるって話はどこにいった。

「でも実際どうなんですか?佐奈子さん的には。年下の男からアプローチされるって」
「どう思うも何も、そもそも私結婚してるし。まあ嫌われるよりはいいんじゃない?」
「じゃあ、もし佐奈子さんが結婚してなかったら?相田さんアリですか?」
「それを知ってどうするのよ…」

自分が結婚していなかったら。そんなこと、考えたこともなかった。もし自分が独身で、相田さんからアプローチを受けたら?そうしたら自分は、どうするだろう。既婚であるというその一点だけが、この悩みの原因なのだろうか。独身であったなら、このモヤモヤした気持ちは、悩みではなくもっと別の名前で呼ばれる感情だったのだろうか。

「お?佐奈子さん、悩んでますね?ワタシ恋してるかもって思ってますね?」
「…楽しんでるよね?亜紀ちゃん」
「そりゃ楽しいですよぉ、他人事ですもん」

あっけらかんと言い放って、付け合せのバゲットをオリーブオイルに浸して放り込む。彼氏ができるまで炭水化物は控えるって話はどこにいった。

「もういいって。この話は終わり。食後のコーヒー持ってきてもらおうよ…あ」

店員を呼ぼうとして、脇においたスマホの着信に気づく。

「おおっ!噂をすればってやつですか!見せてください!」
「食いつきすぎだって…ちょっと待って」

テーブルに身を乗り出す亜紀ちゃんをかわしつつ、スマホの画面を開く。

『飯塚聡』
「ああ、旦那だよ。たぶん家について私がいなかったから連絡したんだと思う」
「なーんだつまんない…あれ、佐奈子さんちょっとガッカリしてません?」
「…いいかげん怒るよ?」

断じてガッカリなんてしていない。日常に少しだけ目先の変化があったから、気になっているだけ。それだけだ。そうに決まってる。





「スタンプラリー?何それ」

帰宅して一息ついていた佐奈子に切り出すと、予想通りその返事には戸惑いがありありと浮かんでいた。

「京急線の駅でスタンプ集めると景品がもらえるんだって。スタンプ冊子が駅にあったからもらってきたんだけど」
「うわ、これ全部集めるの?…改札出ないとダメなんだよね?」
「そりゃそうだよ。まあでも景品をもらうには五個集めればいいんだって」
「なんだ、なら結構簡単じゃない。会社帰りにでもスタンプ集めたら?帰りがけの駅もいくつかあるみたいだし」
「それができないように時間制限があるんだ。日中の時間帯じゃないとスタンプが設置されないらしい。駅で降りるだけじゃなくていろいろ観光もして欲しいってことなんだろうな」
「ふーん…じゃ、土日使わなきゃダメってことか」

部長に言われたからというわけでもないが、帰りがけに最寄り駅の窓口でたまたま見かけたスタンプ冊子をもらってきた。確かに最近佐奈子との時間はほとんど持てていない。二人の時間を作るには、いい口実かもしれない。

「どう、土曜日行かない?」
「いいけど別に。特に予定もなかったし」

話しながらもやたらとスマホを気にしていてところどころ生返事なのがひっかかるが、一応言質はとれた。

「でもなんでこれやろうと思ったの?景品欲しさ?」
「まあそんな感じ」

たまには一緒の時間を…とは面と向かって言えなかった。気恥ずかしさもあるが、それを言ったときの向こうのリアクションを見るのが少し怖かったというのもある。何をいまさら、いままで散々放っておいて、なんて言われればまだ良いほう。こっちは別にそんな時間求めてないけど、なんて態度をとられたときはさすがに辛い。

「『マジカル・プリンセス リリー 限定コラボ手帳』…これ欲しいの?」
「…そういう子ども向けのとは別にいろいろあるんだ、特産品とか」

たぶん。



<後編は、8月31日(水) 掲載予定>
その他の受賞作品はこちら


<京急グループ小説コンテスト大賞作>

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「京急グループ小説コンテスト」は、マイナビニュース、京浜急行電鉄、小説投稿コミュニティ『E★エブリスタ』が共同で、京急沿線やグループ施設を舞台とした小説を募集したもの。テーマは「未来へ広げる、この沿線の物語」。審査員は、女優のミムラ、映画監督の紀里谷和明などが務めた。

(マイナビニュース広告企画:提供 京浜急行電鉄株式会社、マイナビニュース、エブリスタ)

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