当たり前のように会えていたから、この関係の脆弱さに気が付かなかった。僕はおばあちゃんの連絡先はおろか、名前すら知らなかったのだ。

なにかあったのだろうか。心配ばかりが募る。僕にできることは、おばあちゃんの笑顔が絶えずにあることを祈るくらいだった。

「リョー君、なにかあった?」

白河さんが僕の顔を覗き込む。彼女からか花からか、馥郁(ふくいく)とした香りが立って、思わず「いえ」と顔を逸らした。

白河さんがバーに通うようになって一ヶ月が経った。
今日は「スカジャンのお店を取材したいから仲介をしてほしい」という要望のもと、一緒に横須賀に向かっている。僕は取材の協力をすることで、なんとかこの縁を繋いでいた。

「次は上大岡駅か。そろそろミナミの丘が見えてくるね」
「ミナミの丘?」僕はオウム返しをする。
「そっか、リョー君は背が高いから見えないんだね。少し屈んでみて」

背が高い、と言われたことに嬉しさを覚えながら、言われたとおりに屈んでみる。

あれだよ、と彼女が指差した先には小高い丘があった。ツツジらしき植木を削った植栽文字で『ミナミの丘』と書かれている。

「すごい。何年も京急線に乗ってるけど、初めて知りました」
「ね、すごいよね。南の丘メモリアルパークっていってね、とても綺麗な墓地なの。あそこに眠っている方は、こうしてみんなに見守ってもらえて幸せね」

そんなふうに思える彼女を、僕は心底尊敬した。
京急線から望める景色は、お世辞にも綺麗であるとは言えないと思う。トンネルは多いし、海が開けて見えるわけでもないし、坂が多いから住宅街が雪崩みたいに迫ってくる気がして、僕は窮屈に思っていた。

だけど彼女の目には、こんなにも美しい景色が映っていたのだ。
同じ場所から同じ方向を見ていたはずなのに、僕とはまるきり世界が違う。

「どうして白河さんは、ヒアリング・ブロガーを始めたんですか?」

彼女の見ている世界をもっと知りたいと思った。

「昔はパティシエを目指してたの。だけど専門学校の授業でカメラを使ったら、まさかの大ハマリしちゃって。結局無難に就職して、カメラは趣味で続けてたんだけど、街や人を撮ってるうちに、色んな人の話を聞いてみたいと思うようになってね」

自分の話が気恥ずかしいのか、白河さんは前髪をいじる。

「京急線って、逗子だったり久里浜だったり、支線が枝分かれしてるでしょ? 人生もそうなのかなって。途中まではみんなと同じ線路を走ってたのに、私はいつの間にか羽田空港に着いちゃってたから、思い切って全く違う方向に飛び立ってみた、って感じかな?」

お陰で行き遅れちゃったけどね。そんな冗談を交えつつ彼女は続ける。

「でも一番のきっかけは、『ドレミファインバータ』がなくなるって聞いたことかな。ほら、この音」

 停まっていた電車が金沢文庫駅を発つ。たらららん、と小気味いい音が鳴った。発車時に車両が奏でる、京急線ユーザーにはお馴染みのメロディーだ。

「私、この歌う電車が大好きなの。だけど新型車両にはこの機能はつかないんだって。なくなったところで困る人はいないけど、私はやっぱり寂しいもの。本気で訴えたら、一台くらいは残してくれるかもしれないでしょ?どんなに小さな行いでも、見てくれている人は絶対にいるから」

車内の空調は効きすぎなくらいなのに、僕の額からは汗が滑る。
彼女は彼女の話をしている。それは百も承知だけれど、僕の背中を押すための言葉を選んでくれているような気がしてならなかった。

僕も彼女のように飛び立てるだろうか。
彼女の隣に立てたら、彼女と同じ景色が見られるだろうか。

「白河さんて、彼氏とかいるんですか?」

目の前に座る女子高生が僕を見上げた。そういえばここは車内だったと冷静になるけれど、この勢いを逃したら、もう二度と聞けない気がした。

「いないよ。でも理想の人というか、気になってる人はいる」

白河さんは僕をまっすぐ見つめて言った。野次馬女子高生が「これは」とにやけて期待を煽る。

「どんな人ですか?」
「優しくて、とても親切で。最近知ったんだけど、その人ね……」

僕は生唾を呑み込んだ。

「板前さんなの」

イタマエ、サン?
呆ける僕を見て、ぷ、と吹き出す女子高生。白河さんは照れを隠すように、花を抱きしめて微笑んだ。

こうして呆気無く、僕の恋は終わりを迎えた。
僕は想像した。三崎の立派なまぐろを鮮やかに捌く、野性的でたくましい海の男。二人が並んだ姿は絵に収めたいほどお似合いだった。

彼女が幸せになってくれるならそれでいい。
なんてお行儀よく諦められるわけもなく、僕は未練がましく取材の協力を続けた。
時々、常連のウィリーに「俺達のリョーをよろしく!」なんて茶化されていたけれど、白河さんは嫌な顔一つせず笑って受け流してくれた。その優しさが少しだけ憎くて、やっぱり好きだと思った。

折角咲いた恋心だから、自然と枯れる時を待つのもいいのかもしれない。





猛暑の夏が嘘だったみたいに、今年の秋は寒くなった。
川崎周辺がハロウィンのイベントで盛り上がる頃。僕は思わぬ形で暇(いとま)を得た。オーナーが趣味のヨットで怪我をして、入院してしまったのだ。

バーは臨時休業となり、僕はお見舞いに行くことにした。
僕は京急百貨店で花を買った。まさか僕自身が花を持って電車に乗る日がくるだなんて、思ってもみなかった。

追浜駅で電車を降りると、花が潰れないよう、紙袋をしっかり握って歩く。普段はハードケースを持っているからか、急勾配の坂道も辛くない。不思議なほどに身体が軽かった。

病室に行くと、オーナーはガチガチに固定された足を吊って、「やっちまった」と笑った。
色黒の肌に白い包帯がよく映えていて、思わず吹き出してしまった。オーナーはもうすぐ五十歳になるけれど、僕よりよっぽど若々しい。

僕は花を花瓶に挿しながら、「もう若くないんですからね」と冗談で言う。
そう、冗談だったのだ。

「ああ。だから店をリョーに託したいと思ってる」

僕は花瓶を落としそうになった。

「前からそうしたいと思ってたんだよ。リョーは優しいし、お客さんにも好かれてる。それは立派な才能だ。まあ、すぐにとは言わない。だけど考えておいてくれよ。実は俺、マリンショップもやりてえんだ」

オーナーは白い歯を見せて、にい、と笑った。

病室には次から次へと見舞い客が来た。大きなメロンやプリン、成人誌からぬいぐるみまで、ベッドは瞬く間に物でいっぱいになった。

常連客のウィリーはバラの花束を僕に押し付けると、大袈裟に肩を竦める。

「リョーは怪我なんかするなよ。花は意外と高いんだ」




病室を出て、僕は人目も憚らずに大きく伸びをする。
僕はおばあちゃんのことを思い出していた。おばあちゃんはいつも追浜駅で降りていたから、恐らくご主人はこの病院に入院していたのだろう。
結局おばあちゃんにはあれきり会えていないし、どうなったのかも分からない。今後会うこともないのだろう。

だけどもしどこかで会えたら、おばあちゃんは僕を見てこう言うに違いない。

「なにかいいことでもあったのかしら?」

今度は素直に頷けるはずだ。

これから白河さんに会いに行こう。そしてこの思いにけじめをつけたら、胸を張って新しい路を歩んでいこう。

絵は好きだからやっぱり続けたい。そうだ、店に飾るのはどうだろう。気に入って買ってくれる人がいたら嬉しい。
未来のことを考えるって、こんなにも楽しいことだったんだな。

「リョー君?」

背中の方から声がした。なんで、と動揺して、すぐに理解する。彼女もオーナーのお見舞いに来たのだ。

僕は振り返る。そして――目をしばたいた。

「あら、ヨシ君じゃない!」

そこには車椅子に座ったおばあちゃんと、目をまんまるにした白河さんが立っていた。
花を愛でる人たちの共演など、どうして想像できただろう。下手くそなコラージュを見せられているようで、てんで理解が追いつかない。

「あの……ヨシ君、って?」

白河さんは酷く困惑した様子で言った。僕が口を開くよりも先に、おばあちゃんが「そうよ」と答えた。

「穂波ちゃん、彼が前から話してた、いつも席を譲ってくれるヨシ君よ。穏やかで素敵な人でしょう?ほら、板前さんの」

イタマエ、サン?
前にどこかで、聞いたような。抜け殻状態の僕を見て、おばあちゃんは悪戯に笑う。

「油にエプロン、クリーナは食器洗いに使うのかしらね。ナイフって言われてぴんときたのよ。鞄の中身は板前の命、包丁ね。約束してたのにごめんなさいね。私ったら転んで怪我しちゃって、主人と同じ病院に入院してたのよ。もう、年寄りは嫌ねえ。それで、私の答えは当たったかしら?」

おばあちゃんだけがにこにこしていた。僕と白河さんは、きっと同じ顔をしていたと思う。僕はぐるぐる回る頭の中で、必死に辻褄を合わせようとした。

おばあちゃんのご主人は海上自衛隊の教官だった。
白河さんは海上自衛隊の関係者に取材を重ねていると言っていた。
おばあちゃんは僕のことを板前だと思っていた。
白河さんは理想の人、気になる人は板前だと言っていた。
おばあちゃんは言った。『穂波ちゃん、彼が前から話してたヨシ君よ』

僕はいつからこんなにもポジティブになったのだろう。どうしたって、僕にとって都合のいい結果にしか結びつかなない。

「リョー……じゃなくて、ヨシ君」

白河さんは紙袋からピンク色の花を取り出し、僕に差し出す。

「あなたのことを取材させてくれませんか? 私、あなたのことが知りたいです」

白い頬に、花と同じピンク色が灯る。僕は彼女の手ごと花を包んだ。

写真に撮ってください。絵の具が染みこんだ、僕の自慢の手を。
そして語りましょう。僕たちとこの街の、明るい未来を。


fin.



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<京急グループ小説コンテスト入賞作>

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「京急グループ小説コンテスト」は、マイナビニュース、京浜急行電鉄、小説投稿コミュニティ『E★エブリスタ』が共同で、京急沿線やグループ施設を舞台とした小説を募集したもの。テーマは「未来へ広げる、この沿線の物語」。審査員は、女優のミムラ、映画監督の紀里谷和明などが務めた。

(マイナビニュース広告企画:提供 京浜急行電鉄株式会社、マイナビニュース、エブリスタ)

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