なんの変哲もない今日を始めるはずだったある日、
僕はその人と出会った。

奇跡と言ったら大袈裟で、偶然にしては運命的な
僕と『花を愛でる人』の物語。



あの花は誰に会いに行くんだろう



思えば僕は、いつも花のことばかりを考えていた。
正確に言えば、花を愛でる人たちのことばかり考えていた。




僕の平日は昼から始まる。家の最寄駅、京急線泉岳寺駅から快特電車に乗って汐入駅へ。バイト先であるバーまでの道のりだ。
土日は朝から京急川崎駅へ。知人が経営する絵画教室で油絵の講師をしている。

このルーティンも、もう三年になるだろうか。
気が付けば二十七歳、田舎の友人たちはさっさと結婚して、早い奴は小学生になる子供がいる。平成二桁生まれだなんて考えただけで恐ろしい。

せめてもの救いは、就職せずにのらくらと過ごしている、美大の同期たちがいることだ。学費の返済という義理のもとではあるにせよ、ひととせ休みなく働く僕は、まだましな方なんじゃないかと思っている。

何者にでもなれるとはもう思っていない。だけど見切りもつけられない。
くだらない自尊心は焦りを生むばかりで、毎日少しずつ血液中の酸素量が減っていく。

そんな息苦しさから僕を救ってくれるのが、『花を愛でる人たち』だ。





あれは、車窓から望める大岡川の桜が緑色に化ける頃。
上大岡駅から乗ってきたロマンスグレーのおばあちゃんが、席に座る僕の目の前で転びそうになった。僕が脚で挟んでいたハードケースにつまずいたのだ。
幸い顔面ダイブは免れたけれど、僕はせめてものお詫びにと席を譲った。

「ごめんなさいね。両手を出せばよかったのだけれど」

おばあちゃんの手には、花束が抱えられていた。

以来、僕は必ず同じ電車の同じ場所に座る。毎週、平日に一回か二回、示し合わせたようにおばあちゃんと出会っては席を譲った。
偽善だとか罪滅ぼしでしているつもりはない。ただ、おばあちゃんの持っている花が潰れるのは嫌だと思った。

先週は黄色の花束だった。

「初夏らしくていいでしょう?」

おばあちゃんは入院しているご主人のお見舞いに行くんだという。抱かれた花はとても幸せそうだった。

僕はおばあちゃんに名前を聞かれた。

「えっと……ヨシです。漢字は『不良』の良」

今時っぽくないこの名前が、僕はあまり好きではなかった。

「『善良』の良ね。素敵な名前だわあ」

おばあちゃんは目元に縮緬皺を寄せる。あと四十年早く出会ってたら、きっと惚れていただろう。




そんなことがあったから、僕の目は花に敏感になっていたのだと思う。
梅雨に入り、増水した鶴見川にみんながハラハラする頃。土曜の朝、その人は京急蒲田駅から乗ってきた。

吊革に掴まる僕の隣に立ったその人は、人混みから守るように紙袋を抱きしめていた。好奇心にかられて中身を盗み見ると、小さな花束(アレンジメントというのだろうか?)が入っていた。

僕は車窓に映るその人を見た。その人は河原で拾ったひときわ出来のいい丸石みたいな鼻を花に寄せて、こっそりと微笑んだ。

人いきれに満ちた車内がどっと温度を上げる。違う、僕の体温が上がったのだ。

それから数回、土日の朝にその人を見かけた。一つに纏められた髪、貝殻みたいに小さな耳。歳は僕と同じくらいだろう。服はカジュアルなパンツスタイル。青系の色が多いのはここが港町だからだろうか。その人もまた、いつも花を抱いていた。

京急蒲田駅から京急川崎駅までは、快特電車だと一駅だ。その人の隣にいられるのはたったの三分。いつもは有り難いと思う京急線の速さが、この時ばかりは少し憎い。

花を守ることに夢中なその人は知らないだろう。僕がのろまのふりをして、わざと一番最後に降りていることを。

花を愛でる人は、今日も赤い電車に連れ去られていく。
彼女とあの花は誰に会いに行くのだろう。




その日の僕は、蒸し暑さにやられてどうかしていたのかもしれない。
僕は時計を凝視する。大学の入学祝いにもらったハミルトンのジャズマスターには【WED】と確かに表示されていた。

今日は平日。ならどうして、『花を愛でる人』が隣に座っているんだ?

混乱する僕をあざ笑うかのように、その人は僕と同じ汐入駅、横須賀で降りた。ハードケースを持つ手にみるみる汗が滲んでいく。

追いかけるべきか?いや、追いかけたら僕は正真正銘のストーカーじゃないか?

とりあえず見失わないようにと追っていくうちに、とうとうお店に入ってしまった。そこは僕の行きつけのカジュアルレストラン『YUMMY BOY』だった。

「あら、いらっしゃい!」

出迎えてくれた店の奥さんに会釈を返す。隣には花を愛でる人がいた。
彼女と出会ってから約一ヶ月。僕たちは初めて目が合った。

僕はBLTサンドを注文した。出来上がりを待つ間、店内に流れる洋画を観るふりをして耳をそばだてる。

「お引き受けいただき、本当にありがとうございます」

初めて聞くその人の声は、遠くで鳴いてるカモメみたいだった。

「ヒアリング・ブロガーの白河穂波と申します」

シラカワホナミ。なんて美しい響きだろう。だけど聞き慣れない『ヒアリング・ブロガー』とは、一体なんだろうか。




その人――白河さんは、一眼レフカメラを取り出し、店内に向けてシャッター音を鳴らす。グルメかレジャーの取材だろうか。しかし聞こえてくる質問は、およそ想像とはかけ離れていた。

「お店をやっていて一番の喜びはなんですか?」
「この街のどんなところが好きですか?」

白河さんは返される答えの一つひとつに熱心に頷き、メモを取っていた。

運ばれてきたBLTサンドを食べていると、奥さんがやってきて、なぜか僕の向かいに白河さんを座らせた。

「リョー君、まだ時間あるよね?横須賀のいいところ紹介してあげてよ」

動揺した僕が咥えていたトマトを落とすと、白河さんはくすりと笑った。

「リョー君さん、初めまして。私、白河と申します」

知ってます、聞いてました。それに君にさんをつけるなんてかわいすぎます。僕は沸騰する脳内と闘いながら、努めて冷静に「初めまして」と返した。

ちなみに横須賀の人たちは、僕を『ヨシ』ではなく『リョー』と呼ぶ。半分アメリカでできているといってもいいこの街では、響きのいいニックネームが好まれるのだ。




白河さんは意外に口まめで、自分のことをたくさん話してくれた。
普段は飲食店の内勤をしていて、土日は取材にまわっている。今日は有給を取って来たらしい。年齢は三十歳、僕より三つ上だった。ヒアリング・ブロガーという名前は自分で考えたそうだ。

「京急線に所縁のある方々に取材をして、ブログで公開してるんです。この街をよりよくするにはどうしたらいいかとか、将来に対する不安とか。市民の生の声を少しでも多くの人に知ってもらいたくて」

あの花のことも教えてくれた。

「名前とお顔の代わりに、花を持った手の写真を撮らせてもらってます。手にはその人の歴史が刻まれているから」

そう言って、花を愛でる時と同じ笑みを見せた。




白河さんが「私もなにか食べたい」と言ったので、僕はここぞとばかりに常連風を吹かせてお勧めをした。
横須賀のご当地グルメ『海軍カレー』『ネイビーバーガー』『チェリーチーズケーキ』がワンプレートになったメニューだ。すると奥さんが僕を小突く。

「もうリョー君、こんな上品な方に大口開かせる気?初デートにハンバーガーはNGっていうでしょ!」

唐変木な自分を呪った。
けれど白河さんは、運ばれてきたバーガーを鷲掴みにすると、口一杯に頬張った。唇には口紅よりも赤いケチャップがぺったりと付く。

「んーっ美味しい! 私、ハンバーガー大好きなの」

ダメだ。もう完全に好きだ。
そう認めずにはいられなかった。


大人になってから恋を自覚したのは、たぶん初めてだった。認めてしまうといずれかの結果に結び付けなければいけないし、目を逸らしていたものに否が応にも直面させられる。僕の社会的立場だ。

金、権力、肩書き、余裕。年上女性の気を引ける要素なんて、僕は何一つ持っていない。 こういう時、心からイケメンを呪う。容姿というアイテムは、スーパーマリオでいう無敵のスターだ。憎たらしい。

だから翌週、おばあちゃんに質問された時も、僕は咄嗟に逃げてしまった。

「ヨシ君はどんなお仕事をしているの?」

にこにこしながらそう言って、僕が毎日持っているハードケースを見た。おばあちゃんがつまずいたあれだ。

「当ててみてください」

そして僕は後悔することになる。おばあちゃんが思いの外、乗り気になってしまったのだ。

「じゃあ、その中に入っているものを一つ教えてちょうだい?」

僕はおばあちゃんと顔を合わせる度に、このケースの中身を一つずつ教えていくことになった。

最初は『油』と答えた。次は『エプロン』、その次は『クリーナー』。このケースの中身はなんてことない、油絵の画材だ。


僕は平日、バイトが始まるまでの間、ヴェルニー公園で絵を描いている。右手には米海軍基地、左手には海上自衛隊基地が望める、軍艦好きには堪らない公園だ。
僕は軍港を絵に収め、ネットで販売している。マニアにはそれなりの値がつくけれど、生業にできるほどの額には程遠い。

おばあちゃんは僕の職業について、真剣に、けれど楽しそうに考えてくれた。

「まだ分からないわ。でも、優しいヨシ君にぴったりのお仕事なんでしょうね。私、ヨシ君のことを色んな人に自慢してるの。毎回席を譲ってくれる、素晴らしい人がいるのよって」

胸が痛んだ。おばあちゃんは悪くない。悪いのは自分を誇れない僕自身だ。

絵で食べていきたいと望んでいるくせに、本気で目指してると言い切れない自分が情けない。公言してしまったら、叶わなかった時に恥を見る。それが怖いのだ。

僕は苦い唾を呑み込んで、「今日の花束は青系なんですね」と話を逸らした。

「主人は海上自衛隊で教官をしていたの。だから海の色が好きなのよ。お見舞いには不向きな色なのに、青がいいと言って聞かなくて」

花を抱くおばあちゃんの手には、優しいしわが幾つも刻まれていた。

もしも僕が入院したら、こうして花を持って会いに来てくれる人はいるのだろうか。うっかり目頭が熱くなってしまったので、それ以上は考えないことにした。





『YUMMY BOY』で出会った時、僕は白河さんから名刺をもらっていた。
僕は緊張しながらメールを送った。その日のうちに返ってきた返事には、折り目正しい挨拶と、こんなことが書いてあった。


リョー君はアメリカ人が集まる、どぶ板通りのバーで働いているのですよね。もしよろしければ、取材に協力していただけないでしょうか。
 現在、海上自衛隊の関係者の方に取材を重ねておりまして、併せて米海軍の方にも取材をしたいと考えております。
しかしお恥ずかしながら、私は英語がからきしできず、縁故もなく、困っておりました。ご検討いただければ幸いです。


白河さんに頼られた。それだけで動機は十分だった。
美大時代に留学した経験がようやく役に立つ。意図した用途ではないけれど。

気がいいオーナーもぜひ、と喜んでくれた。日本とアメリカの橋渡しになってくれるなら大歓迎だ、リョーとお嬢さんの橋渡しも応援したいしな、と。
僕はこの歳になって、自分は顔に出る人間なのだということを知った。




白河さんは細い体を更に小さく畳んでバーにやってきた。この辺りには強面のアメリカ人が闊歩し、お天道様には顔向けできない店が並んでいる、という印象を持っていたのだろう。
『どぶ板通り』という、ぎょっとするような名前のせいもあるかもしれない。

大丈夫、僕に任せてください。そんなふうに言えるわけもない僕は、「みんないい人ですよ」と伝えた。
実際に、店に来るアメリカ人たちはみんな気さくで優しかった。中には喧嘩っ早い人もいるけれど、酔いが覚めたら割ったグラス代を持って詫びに来てくれる。
なにより、こんな僕にも「リョー、調子はどうだい?」「リョーの笑顔を見るために来てるのさ」と、温かい言葉をかけてくれるのだ。

常連客のウィリーに取材の話を持ちかけると、彼は快く引き受けてくれた。
それどころか、「俺たち海軍兵をもっと受け入れてほしい」「横須賀を観光地として発展させるべきだ」と、熱い思いを語ってくれた。僕はなるべく正確に、心を込めて通訳して、白河さんに伝えた。

最後に花を持ったウィリーの大きな手の写真を撮る。その花はお礼のプレゼントだと伝えると、ウィリーは白河さんを思い切りハグした。

「ワイフが喜ぶよ。きれいな花をありがとう。ミズ・シラカワも一緒に飲もう!」

白河さんの目が喜びで潤んでいたのを、僕が見逃すはずはなかった。 僕は彼女のことも、この街のことも、もっと好きになった。





僕は相当浮かれていたのだろう。翌週会ったおばあちゃんに、開口一番「なにかいいことでもあったのかしら?」と当てられた。
僕はお茶を濁す。さすがに「好きな人ができました」なんて、こっ恥ずかしくて言えない。

「ところで今日は、どんなヒントをくれるのかしら?」

そろそろネタが尽きてきた。絵の具、筆、パレット、どれも答えに直結してしまう。
僕は逡巡して、おばあちゃんにだけ聞こえるように言った。

「ナイフです。といっても人を襲うような危ないやつじゃないですよ」

さすがに引かれるかと思ったけれど、おばあちゃんは閃いたように表情を明るくした。

「分かったわ!」

ここまで引っ張っておきながら、実はちょろっと講師をしているくらいで、画家と言ったら嘘になる程度だと知ったら、おばあちゃんはがっかりするのだろう。けれど仕方ない、それが僕の正当な評価なのだ。
僕が臍を固めたその時、幸か不幸か電車は追浜駅に到着する。おばあちゃんは席を立った。

「次、会った時に答え合わせしましょうね」

それ以降、おばあちゃんが電車に乗ってくることはなかった。



<後編は、9月16日(金) 掲載予定>
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<京急グループ小説コンテスト入賞作>

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