『空間に新たな彩りを』
駅にピアノを置くことで、人々が行き交うだけの空間に彩りをもたらし、過ごしやすい場所に変える「ステーションピアノ」。空間を自在にあやつり、クリエイター・観客の双方に音楽の新しい楽しみ方を提供する「Active Field Control(AFC)」。どちらも空間を通して音楽を身近な存在に変え、「人と音楽」「人と人」の関係を深める力がある――これら二つの取り組みに共通する「Key」をご覧ください。
多くの人にとって、駅は“通過点”だ。通勤のために利用する。行き先のことを考えながら電車を待つ。友達と待ち合わせて隣町まで遊びに行く。そんな、決して“目的地”ではない場所に、ピアノを一台置いてみたら何が起こるだろう。うれしそうに腰を下ろして、お気に入りの曲を弾き始める人。その音色を聞いて立ち止まる人。ギターや手拍子、ダンスなどで飛び入り参加する人も出てくるかもしれない。さまざまな人が行き交う公共空間だからこそ、きっと何かが起こる。ピアノを中心にして、思いもよらなかった化学反応が続々と生まれてくるのである。
ヤマハは2014年から、フランス国有鉄道(SNCF)と協力してフランス各地の駅にピアノを設置している。誰もが自由に演奏できる「ステーションピアノ」だ。これは、駅に彩りを添えるだけでなく、「移動」のための場所に「時を過ごす」という新たな意味をもたらす取り組みでもある。
ステーションピアノプロジェクトが始まるきっかけとなったのは、あるイベント会社からの問い合わせだった。ヤマハ・ミュージック・ヨーロッパ フランス支店に勤めるエリック・バレンションは当時をこう振り返る。「イベントでパリの街中にピアノを設置したいので、貸してくれないかと相談を受けました。屋外では管理が難しいので、駅の構内に設置することになったのが始まりでしたね」。
わずか15日間のイベントだったが、駅にピアノがある風景は想像以上に人々の心をつかんだ。「駅の利用者だけでなく、数人の駅長さんからも『ピアノを設置したままにしてほしい』と要望が寄せられました」。日常を非日常に変え、無色の駅にカラフルな音色を響かせたステーションピアノ。たくさん人たちの声に背中を押され、バレンションはフランス中の駅にピアノを設置しないかとSNCFに持ちかけた。
誰もが自由に弾ける「ストリートピアノ」はこれまでも、イギリスをはじめ多くの国で一定期間、設置されてきた。だが、広範囲にわたって、しかも長期的に続けるのは簡単なことではない。「フランス各地のディーラーと協働できるヤマハだからこそできたんですよ」。こう語るバレンションの目はちょっと得意げだ。
1年間にわたる議論と調整の末、2014年にステーションピアノプロジェクトは始動した。掲げたテーマは「À vous de jouer !(ア・ヴ・ドゥ・ジュエ:あなたが弾く番!という意味)」。設置後すぐにヨーロッパ中のメディアに取り上げられ、ステーションピアノは1年目から大きな反響を呼んだ。修理で一時的に撤去しただけで「ピアノはどこにいっちゃったの?」と問い合わせが殺到したほどだ。当初は十数カ所の駅から始まったステーションピアノは人気とともに拡大し、2024年3月現在、約 60台近くが全国に設置されている。
このように大人気のステーションピアノだったが、運営においては課題も少なくなかったとバレンションは振り返る。特に問題となったのはピアノの継続的なメンテナンスだ。
駅を非日常の空間に変えたステーションピアノも、毎日、目にするうちに日常の一コマになっていく。中には乱雑に扱う人やピアノを傷つけてしまう人まで出てきて、メンテナンスを請け負う地元ディーラーの負担がどんどん大きくなっていった。「このプロジェクトはSNCFとヤマハの協働企画ですが、運営は各駅とディーラーとの直接契約で成り立っています。できるだけ多くの人に長くピアノを楽しんでもらえるよう、対策を模索しました」(バレンション)。
気軽に弾けるのが魅力だからこそ、厳しいルールを定めたり、必要以上に注意書きを掲示することは避けたかった。代わりに、ピアノを囲うようにして椅子やベンチを置くなど、空間づくりに力を入れた。「ピアノの周りをリビングルームのようにデザインし、落ち着いた空間につくり替えました。他の場所とは少し切り離された、ピアノにとっての『安全圏』をつくったのです」。こうした工夫のおかげで、ステーションピアノは再び特別な存在になり、ピアノの扱われ方も大きく改善した。
バレンションはいまでも毎週のようにSNCFや各地の駅職員、ディーラーとミーティングを行い、ピアノの設置状況を確認したり、トラブル対応に当たったりしている。彼が多くの時間をかけて、企画の存続に情熱を注ぐのはなぜだろう。「日々の生活の中にいつも音楽がある、そんな世の中にしたいのです」。バレンションの答えに迷いはない。
“通過点”の駅では、なぜか心が落ち着かない。乗り間違えてしまうのではないか、電車は時間通りに来るのか、忘れ物はないか。人々はこんな心配事を胸に、急ぎ足で駅を通りすぎてゆく。「でも、そこにピアノの音色が聞こえてくると、ふとわれに返って立ち止まることができます。一息ついて落ち着いたら、前向きな気持ちになって、家族や友人、そして人生について振り返る時間になるかもしれません」(バレンション)。それは人が意識できるほど、大きな変化ではないかもしれない。それでも、音楽を耳にするだけで駅は過ごしやすい場所に変わるのだ。
実は、駅を「過ごしやすい場所」に変えようとする取り組みはこれまでにもあった。「SNCFが過去にいくつもの施策を試みたそうです。ランニングマシーンを置いてみたり、ボタンを押すと詩が出てくる機械を設置したり。その中で、ステーションピアノが一番人々の心を捉えたようです」(バレンション)。音楽は人のこころを癒やし、震わす。10年たったいまも駅のピアノが愛されているのが何よりの証拠だ。
9歳からピアノを習い、ヤマハの音楽教室の運営にも携わってきたバレンションにとって、「音楽を身近に感じるきっかけづくり」は長年のテーマである。音楽になじみがない人にとって、コンサートに行ったり、楽器に触れたりする機会はいいきっかけになるが、慣れないことを進んでやろうとする人は少ない。それなら、こちらから人々のもとへ音楽を届けに行こう。人々の生活を、豊かな音楽で満たしていこう。日頃からこう思っていたバレンションにとって、ステーションピアノの企画は「ヤマハの使命」以外の何ものでもなかった。
「多くの人は、音楽に対して一種の諦めを感じています。『自分には難しすぎる』『いまから習ってもうまくならない』と言って避けてしまうのです。ですが、音楽を楽しむ感性は、すべての人が持っているはずです」(バレンション)。年齢や経験にかかわらず、誰もが日常的に音楽に触れられる――そんな毎日が実現したら、世界は少しだけ明るくなるのではないか。
2024年には、ステーションピアノを活用したコンペティションが開催される。プロジェクトが始まった2014年にも行ったが、駅で演奏している動画をインターネットにアップするだけの気軽な企画だ。このコンペティションをきっかけに、ステーションピアノが次の10年、次の100台へとつながっていくことをバレンションは願ってやまない。
人々のもとに音楽を届け、駅を過ごしやすい場所に変えたステーションピアノ。このように、既存の空間に新たな価値をもたらすヤマハの取り組みは他にも数多くある。次回は空間音響の常識を変えた「Active Field Control(AFC)」に迫ります。お楽しみに。
(取材日:2023年12月)
エリック・バレンション|ERIC VALENCHON
ヤマハ・ミュージック・ヨーロッパ フランス支店 ピアノ営業部。幼少期から家にあるピアノに触れ、9歳から本格的に習い始める。1994年の入社以来、営業、音楽教室事業、マーケティングなど幅広い業務を担当。2013年にフランス国有鉄道(SNCF)にステーションピアノ企画を提案し、現在も同プロジェクトのサポートを行っている。
※所属は取材当時のもの
空間に新たな彩りを
#3 空間を通じて、音を通じて、こころをひとつに
共奏しあえる世界へ
人の想いが誰かに伝わり
誰かからまた誰かへとひろがっていく。
人と人、人と社会、そして技術と感性が
まるで音や音楽のように
共に奏でられる世界に向かって。
一人ひとりの大切なキーに、いま、
耳をすませてみませんか。
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