『すべての人の“表現したい”がかなう世界』 
自由に表現したいという想いにどこまでも寄り添えるように。「VOCALOID」と「だれでもピアノ」はまったく異なるように見えて、そんなやさしい世界の実現を共に描いている。耳をすまして聴こえてくるのは、自由の音なのかもしれない。


一本の指でピアノを弾くと、それに合わせてほかの鍵盤やペダルが動き出し、まるで熟練のピアニストのような演奏ができる。「だれでもピアノ」は、ピアノが弾けないすべての人に寄り添い、演奏のよろこびに気づかせてくれる楽器だ。

2015年、東京藝術大学COI拠点のインクルーシブアーツ研究グループとヤマハとで共同開発をスタートした「だれでもピアノ」は、ヤマハの自動演奏機能付きピアノ「DisklavierTM」の技術をもとにして開発された。現在は、Disklavierに 標準搭載されている機能を使うか、またはDisklavierとアプリを連携させて使う方法がある。後者はAIによってより滑らかな演奏ができるようになっている。

どんなにゆっくり弾いても思い通りに弾けない時、自動伴奏がやさしく寄り添ってくれる。この楽器なら文字通り、誰でも自分のペースでピアノ演奏の楽しさを味わえる。

一本の指からはじまった物語

「だれでもピアノ」開発のきっかけとなったのは、ショパンへの強い想いを抱いていたひとりの高校生の存在だった。特別支援学校に通っていた彼女は、障がいによって身体を自由に動かすことができないでいた。彼女のことを知った東京藝大の研究者が、技術の力で支援できないかと考えてヤマハに相談を持ちかけたことから、共同開発が始まった。

  • 研究開発統括部 研究開発企画グループ 田邑元一

    研究開発統括部 研究開発企画グループ 田邑元一

「指一本でしか弾けない。だけど頭の中にはショパンの音楽が鳴っていて、ノクターンを弾きたいという強い想いが彼女の中にあったんです」。そう説明するのは、「だれでもピアノ」の企画・開発・研究に携わっている田邑元一だ。

「それまでは彼女が弾けないところを音楽の先生が補っていたのですが、自分ひとりですべて弾けるようになりたいという想いがあふれていて。それがヤマハの開発チームの心を揺さぶりました」

彼女が出演するピアノコンサートまでに間に合わせるため、ヤマハのメンバーは東京藝術大学と協力し、たった3ヶ月で「だれでもピアノ」の原型を開発した。Disklavierを応用した開発だったため、ピアノの仕組みを使って鍵盤やペダルの動きを自動で制御する自動演奏の技術の部分に大きな障壁はなかった。しかし、「指一本での演奏」で原曲を再現するという目的に合わせた曲のデータづくりが最大の難関だったと田邑は振り返る。

まず、「ペダルを踏めないことをどう補うか、試行錯誤しました」。ノクターンの出だしはレガートという「音をなめらかにつなぐ奏法」が特徴的だ。通常であればひとつの音を鳴らした後、その鍵盤を押したまま次の音を鳴らすのだが、一本の指で弾く彼女にはその奏法ができない。音を途切れさせないためには、通常ではペダルを踏まないタイミングでペダルが駆動するように自動演奏データをアレンジしなおす必要があった。「ノクターンの世界観を守るため、レガート奏法を大切にしたい」という想いのもと、どのタイミングで、どの程度ペダルを踏ませるか、といったデータの検証に試行錯誤した。

特別支援学校に足を運び、彼女の演奏を観察する。試作品をつくって学校に持ち込んで弾いてもらい、そこで見つかった課題を解消するためにまた試作品をつくる。このプロセスを繰り返し、3ヶ月後、無事本番を迎えたのだ。

コンサートの後もDisklavierを用いた技術協力を行い、改良や機能の追加を重ねてきた。いまでは、さまざまなワークショップやイベントなどで多くの人に「だれでもピアノ」を体験してもらいながら、医療機関とも連携し、「だれでもピアノ」の効果検証を行っている。

上手でも苦手でも演奏が楽しくなるピアノ

障がいのある高校生の想いから生まれてきた「だれでもピアノ」。しかし、これは障がいのある人だけの楽器ではない、と田邑は語る。

「だれでもピアノ」を使ったイベントやワークショップでは、障がいの有無にかかわらず、さまざまな人たちが演奏を楽しんでいる。「本当に誰でも弾けるというところがポイントです。ピアノは弾きたいけど、自分には無理だろうと思っている人はけっこう多いんですよ。年齢、性別、障がいなどは何も関係ないと思います」。全く楽器を弾いたことのなかった高齢者が「だれでもピアノ」でベートーヴェンの「エリーゼのために」の右手パートを数カ月練習し、最後には「だれでもピアノ」のサポートを受けながら、右手だけで自信を持って人前で演奏できるようになった例もある。

「ピアノは弾けるようになるまでに長い年月がかかり、なかなか上達せずに挫折することもある難しい楽器。そんなイメージを持っている人がたくさんいる」と田邑は言う。「街中にあるストリートピアノも、興味はあるけど弾いたことはないという人が多いのではないでしょうか。ピアノを弾ける人だって、もっと上手に弾ける人が周りにいたらどうしようとおじけづいてしまったりして。でも、指一本でも楽しく演奏できるんだったら、ピアノが怖くなくなると思うんです」。ピアノに対する心のハードルを下げること。それも、「だれでもピアノ」が持つ力の一つだ。

振り返ってみると、これまでの田邑の暮らしの中にはいつも音楽があった。幼少期からヤマハ音楽教室に通い、中学、高校、大学を通じてロックからクラシックまで、ジャンル問わず音楽を楽しんできた。子どもの頃はオルガンやエレクトーンを楽しく弾いていた田邑だったが、鍵盤に触れない期間が長くなり、いつしか鍵盤楽器が苦手になってしまった。だから、このプロジェクトが始動した時には「ピアノが苦手な自分を重ねやすかった」という。田邑の開発の原動力になったもの。それは「素直に、自分も寄り添ってくれる楽器が欲しいと思えたこと」だ。

楽器がもたらす「レガートな社会」

ピアノに対する心理的なハードルが下がり、多くの人が演奏や音楽表現を楽しむことができたら、どんな世界が実現するだろう。

医療や介護の領域では、楽器演奏で得られるメリットがあると考えられている。実際、楽器演奏は認知症の予防に役立つと期待されている。しかし、「仮に認知症の予防に役立つと分かっていても、楽器を弾けない人はそもそもその予防の手段にたどり着けない」と田邑は指摘する。

だからこそ、「楽器が人に寄り添ってサポートし、弾けるように後押しすればいい」と田邑は言う。「実際にいま、どんな効果があるかを医学的エビデンスも含めて見定めようとしているところです」

ほかにも、演奏することで人と音楽との関係性が深まるという効果もあるだろう。「音楽では、鑑賞するのと演奏するのでは、大きな違いがあります。少しでも演奏したことがあれば、演奏者の気持ちが分かるようになるし、演奏する意味も分かるようになるんじゃないかな」。これまで「鑑賞者」の側にしか立てなかった人が、「だれでもピアノ」を通して「演奏者」としての新たな楽しみ方を発見できるかもしれない。

音をなめらかにつなぐ「レガートな演奏」を、指一本でも可能にする「だれでもピアノ」。それは同時に、障がい者と健常者、演奏者と鑑賞者など、あらゆる壁を穏やかに取り外し、人と人、人と音楽をなめらかにつないで「レガートな社会」を実現する楽器と言えるかもしれない。「だれでもピアノ」は、それまでにはなかった関係性をこの世界に紡ぎ出してくれるのだ。

前回紹介した、クリエイターの自由な表現に寄り添うVOCALOIDと、ピアノを弾きたい人たちの想いに寄り添う「だれでもピアノ」。一見、かけ離れた存在に見える二つの楽器は、「自分を表現したい」と願い、一歩踏み出そうとする人たちを応援するというレゾンデートル(存在意義)でつながっている。次回はいよいよ、この二つの物語の「Key」に迫ります。お楽しみに。

(取材日:2022年10月)


田邑元一|Motoichi Tamura
研究開発統括部 共創担当。大学時代、当時ブームだったAI研究に携わる一方、楽器演奏の知見を本業に役立てたいという想いで1988年、ヤマハ(株)に入社。研究部門で電子楽器の新音源開発、事業開発部門でVOCALOIDの海外展開などを経て、再び研究部門に携わる。2015年より、東京藝術大学COI拠点と共同で「だれでもピアノ」をはじめとする新しい音楽体験の開拓を行う。

※所属は取材当時のもの

『すべての人の“表現したい”がかなう世界』#1
クリエイターの自由な表現に寄り添う技術

『すべての人の“表現したい”がかなう世界』#3
自由の音が聴こえてくる楽器

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