昼休みが始まって十分すると、村雨雄大から誘われた。
「コンビニ行かない?」
「昼なら食べちゃった」と、芦崎つむぎは目の前のパンの袋を指したが、村雨は「奢るから来て」と部長席の方をちらりと見る。
あーいつものやつね。芦崎は手をひらひら振った。先に言っててという合図だ。二人で一緒に出ると上司たちがからかいモードに入るので面倒くさいのだ。
芦崎と村雨は入社して九年目の同期だ。セールスチームの先輩たちはみな四十代、後輩たちはみな二十代。昼休みくらいは気を遣わずにいたいので、村雨と一緒にランチに出ることが多い。
村雨はなんというか……進歩主義者だ。
会議で大量の紙が配られるたび、ファックスしてくださいと言われるたび、こういうのはもう古いので改善してほしいと上司たちに訴える。通ることもあれば、通らないこともある。通らない時は昼休みに愚痴ってくる。
会社の裏のお地蔵さんの前で落ち合うと、芦崎は言った。
「大阪支社との会議をWebでもやろうって提案が部長にはねられたんでしょ。聞こえてたよ」
「あいつら出張したいんだよ」と村雨は苦々しげに言う。「たいした会議でもないのに、わざわざ大阪まで行くのはさ、その後に心斎橋で飲みたいからなんだよ」
「心斎橋は美味しい店多いよね。それに、大阪支社の人ともたまには飲まないと揉めやすくなるってのはあると思う」
「たまにってレベルじゃないだろ、あれ」
二人は商店街のアーケードの下を歩いて、徒歩五分のコンビニに向かっている。
「Webで打ち合わせしたいってクライアントも増えてるし、営業部には小さい子がいて出張できないメンバーもいるし、少しは未来へ向かって進んでいかないとさ……」
その通りだが、この同期は反対派の意見に耳を貸さないところがある。それでは通る話も通らなくなる。芦崎は話の矛先を変える。
「だけど村雨にも優しいとこがあるんだね。子持ちの人のことまで考えるなんて」
「それは、年齢的に考えるだろ、そういうことも」
「へー、そういうとこは保守的なんだね。いい人がいるといいね」
「それは……いることはいるんだけど……」
と村雨は言葉を濁す。社内に片思いの相手でもいるのだろうか。同期の恋愛になど興味はないが、気分が変わったようでよかった。
「何奢ってもらおうかなー」と言いながら冷房の効いたコンビニに入る。「暑いからアイスがいいな」
昼ごはんを探しに行く村雨とレジ前で別れ、アイスコーナーへと向かおうとした足が止まった。レジの前で七十代くらいの女性が「ごめんなさいね」と繰り返している声が聞こえた。見ると、財布と格闘している。後ろにはサラリーマンの列ができていた。
小銭だな、と思った。祖母も小銭を出すのが苦手だった。思わず声が出た。
「あの、よければ出しましょうか」
そのご婦人から財布を受け取り、小銭を手のひらに出した。全部で415円。レジの金額を見ると420円。
「5円くらいなら私が」と言いながら、しまったと思った。財布を会社に置いてきた。
「お金おろしてくるわ」とご婦人は苦笑いしたが、コンビニ内のATMは店の奥だ。足が悪そうなのに歩かせたくないと思ったが、ご婦人は行く気だ。「商品置いといてね」と店員に告げると、杖で方向転換しながら「お待たせして、ほんとに」と後ろに並ぶ人たちに律儀に頭を下げている。誰も反応しなかった。一番前のサラリーマンの口だけが声もなく動いた。早くしろよ。体がぱっと冷たくなって身がすくんだ。その時だった。
ピッ、と音がした。
音を発したのはレジの端末だ。その上に村雨がVisaカードをかざしている。いつの間にかレジ前に戻ってきていたのだ。ナイス、と思った。芦崎もすぐ動く。店員からレジ袋を受け取り、サラリーマンたちを振り返った。
「どうぞ! お忙しいんでしょうから!」
ご婦人の背中を押して入り口に向かう。知らない人に怒ってしまった、と反省しながら前を向くと、村雨が自分を見ていた。「何よ」と言うと「別に」と返ってきた。
入り口の前の広いスペースで三人は立ち止まった。Visaのタッチ決済で会計を済ませたのだ、ということを説明すると、「へえ、そんな便利なものがあるの」とご婦人は予想以上に興味を示した。
「小銭出すより、これで決済したほうが楽ですよ」
まるで自分が開発した機能であるかのように村雨は得意げだ。
「ありがとう、主人にも教えてあげよう」ご婦人はにっこり笑った。「この年になると、どこへ行ってもモタモタしちゃって、みんなに置いていかれてばかりで、嫌になっちゃうわね」
祖母もそう言っていた。こんな風になるなんて思いもしなかった、と心細げに笑う顔を思い出したら涙が出そうになった。亡くなってまだ半年だ。つい言った。
「置いていったりしません!」
村雨がまた自分を見ている。「だから何?」と言ったら「いや」と言われた。
名刺をください、とご婦人は言ったが、大した金額じゃないんで、と村雨は固辞した。ご婦人は「これ、二人で食べて」とレジ袋からモナカアイスを村雨に押しつけて去った。板チョコが入っているやつだ。
「もらっちゃったね」と言うと、「やわらかい」と村雨がつぶやいた。硬い皮の下のバニラアイスが溶けはじめているらしい。「芦崎が食っていいよ」とこっちによこす。
「いや、全部食べられないし、これは村雨のだよ。助けたのはあなたなんだから」
Visaカードを持ってレジに現れた村雨は何も持っていなかった。あのご婦人を芦崎が助けようとしているのに気づき、昼ごはん選びを中断して戻ってきたのだろう。
「村雨も置いていかない人だよね」
芦崎がモナカアイスの袋を開けながら言うと、村雨は数秒黙った後に言った。
「じゃあ半分だけ」
「あーごめん、半分に割れなかった」と三分の二を村雨に渡す。「昼休み、あと十分しかないし、お弁当買い損ねたでしょ。それランチ代わりにしなよ」
コンビニの外は太陽がまぶしかった。村雨はモナカアイスをかじりながら少しだけ前を歩いている。さっきより力が抜けた肩を見て、何を考えているのかわかった。
みんなで未来へ行く方法を考えている。
モナカアイスは冷たくて美味しかった。午後からセールスチームの全体会議が始まる。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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朱野 帰子(あけの かえるこ)
小説家。 1979年、東京都生まれ。2009年、『マタタビ潔子の猫魂』で第4回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞。2015年、『海に降る』がドラマ化される。2018年に刊行した『わたし、定時で帰ります。』は働き方改革が叫ばれる時代を象徴する作品として注目を集める。その後刊行した続篇『わたし、定時で帰ります。ハイパー』(文庫版のタイトルは『わたし、定時で帰ります。2:打倒!パワハラ企業編』)と併せてドラマ化されたことでも大きな話題に。他の著書に『科学オタがマイナスイオンの部署に異動しました』『対岸の家事』『わたし、定時で帰ります。ライジング』などがある。 |
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