働く30代のオンナたち。
仕事とか結婚とか幸せとか孤独とか—、いつもたくさんの矛盾を抱えている。
そんな彼女たちのセキララな気持ちを描く、東京ワーキング・ストーリー。

ソラチカなオンナ

「もう!こんな時に限って—」
マリコは声をあげた。重宝しているシンプルなゴールドのネックレス—、それが、絡まっていた。
「しかも…めちゃくちゃ硬い…」

なんでこんなに絡まってしまったのか。このネックレスは昨日もつけていたのに。でも、昨夜の脱ぎ捨てられたストッキングを見て、自分の酒癖の悪さを思い出す。

「むしろ引きちぎらなくてヨカッタ」

いや、引きちぎってもよかったのだ。少し前に別れた男にもらったネックレス。それをいまだにヘビロテしているのは、未練ではない。女子力のなさ、つまりはだらしなさなのだ—と、自分に言い聞かせている。

「ん、もういいや」

マリコは、少しうんざりして、バックの小ポケットにネックレスを放りこんだ。そんなことをすれば余計絡まることも知っている。けれど、今から別のネックレスを選択する時間もなかった。

「時間があれば後でほどこう」

いつものようにトレンチコートをはおり、ハイヒールを履いて、マンションを飛び出す。

「ケータイ、財布、鏡…」

家を飛び出してからバックの中身をチェックするのは、マリコのダメな癖である。
「あ、あと定期…」

コートのポケットを確認する。
ブルー色の定期券を取り出し、最寄りの広尾駅の改札を通る。
昼まで寝ていたい土曜日の11時。でも今日は、涼子とのランチ会がある。

涼子は四つ上の職場の先輩だ。
マリコはメーカーの営業職である。入社当時は、負けん気だけは強い、でも実力が伴っていない、部署の問題児だった。
そこで面倒を見てくれたのが涼子である。
当時、涼子は、入社4年目でトップセールスを保っていた。若手ながらに海外出張を頻繁にこなし、社内はもちろん、クライアントの信頼を得ている女性—、マリコにとって憧れである。そんな先輩が自分に目をかけてくれている—、そう思うだけでうれしかった。直属の後輩になって4年。その間、マリコは涼子にべったりだった。思い返すと、ちょっとはずかしいくらい"金魚のふん"。

しかし、その関係は終わりを迎える。
30歳になった涼子に、当然のごとく出世の話がやってきた。マリコは、キャリアアップする涼子の未来像を疑わなかった。しかし、涼子はそれを断った。そして、その後あっけなく、結婚をした。
当時、マリコは26歳。
やっと、やっと言動にスキルが追い付いてきて、少しずつ涼子の背中も見えてきた—確実に近づいた—、そう思い始めた矢先の出来事だった。

「私、結婚したくなったのよ」

涼子の言葉は、今も耳に残っている。彼女は2年ほど事務職をこなした後、産休・育児休に入った。

「マリちゃん、ごめんね」

マリコは、目標とメンターを失った。そして孤独になった。だが、根性はあった。

「負けるな、アタシ」

毎朝会社のトイレで言い聞かし続けた。そのおかげか、マリコは飛躍的に伸びた。おもしろいように大きな仕事が入ってくる。半分を海外で過ごす月も出てきた。はじめは体調を壊したり、失敗したりで辛いこともあったが、持ち前の負けん気で一歩一歩進んでいった。
それは涼子に対するちょっとした復讐心でもあった。
仕事を捨てた—、結婚に逃げた女への復讐心。


そんな涼子が、来月から職場復帰する。今日はそのお祝いとして、マリコから誘ったランチ会なのだ。実に2年ぶりの会食だった。
マリコは今年30歳になる。
襟を立てたトレンチコートと、上質なハイヒール。信頼のアイテムたちは、実際、今のマリコによく似合っていた。
しかしどれだけ仕事で成功しても、ずっと耳に残っているのは、涼子の言葉だ。


結婚したくなったのよ—。

がんばってがんばってがんばって。
マリコは色々なものを手に入れた。
でも。
「ああ、ダメだ—」

マイナス思考を振りきるために、マリコは首をふった。 西新宿駅の改札を抜ける。いつものようにオートチャージしてくれている。残高を心配しなくてもいい。
朝のネックレスの件以外、すべてスムーズにいっている。

大丈夫、大丈夫。
平常心。平常心。
「ふぅーーーー」
マリコはカレッタ汐留
に向いながら、小さく息を漏らした。


ソラチカをやめたオンナ

「マリちゃんひさしぶり」
涼子とは、カレッタ汐留のレストラン『/so/ra/si/o/』で待ち合わせをした。
「涼子さん! お変わりないようで、なによりです」
本当は少しだけふっくらした気がした。白いセーターと黒いスカート。モノクロを好むところは変わっていないが、以前の服装よりもずいぶん長くなったスカートの丈に、"母"としての顔を感じてしまった。
「あ、メニューどうぞ、どうぞ」
後輩の顔に戻ってみる。涼子もそれに合わせてくれるだろう。
涼子はメニューをざっと見たあと、「ねね、ワイン飲んじゃおうか」といたずらな笑顔を向けた。そうだ、この人は酒豪だった。マリコは彼女からお酒を学んだのだ。

"旦那さんとはうまくいってますか?"
"お子さんはお元気ですか?"
"ご近所付き合いって、やっぱ、大変ですか?"
"ぶっちゃけ、お姑さんとはどうなんですか?"

まずは他愛ない、あたりさわりない会話をしてみる。涼子もそれに乗っかってくる。 距離の縮め方を探る、マリコお得意の談笑スタイル。仕事で培ったスキルは、プライベートでも活かされる。

「職場、どう?」
食事も終盤に差し掛かり、涼子が会話を振ってきた。
たしかに来月から復帰する彼女にとって、最も興味のあることだろう。
それに中身のない女性の会話に、そろそろ二人とも飽きてきた。
「雰囲気ですか? みんなグチグチいいながらも、なんだかんだ楽しそうに仕事してますよ」
とくに若い子たちは—。そう言いかけてやめた。
「そっか、相変わらずだね。マリちゃんはどうなの?」
「私は海外ばっかです。まぁ充実しているので、いいんですけどね」
いいのだけれども。
「でも、たまーに、辛くなります」
ケラケラと、笑ってみた。涼子はまっすぐマリコを見ていた。
「あなたが結婚した意味、ようやく理解してきたのかもしれません」
あなたが、結婚に逃げた意味—。

「私は、涼子さんに裏切られた、そう思っていたんです」
昼のワインが回ってきたみたいだ。胸が少し痛い。苦しい。

結婚したくなったのよ—
涼子の言葉がぐるぐる回る。

当時はそんな涼子が嫌いだった。裏切られた気持ちでいっぱいだった。
でも、今のマリコは、悲しいくらいに理解できる。
アラサーの女が仕事で戦い続ける。その辛さを、年を重ねるごとにまじまじと知った。
それは孤独。
圧倒的な孤独。


言葉が止まらない。このまま言いたい、言ってみたい—。

『やめようと思うんです。仕事』

つらい。
怖い。
涼子のような安定が欲しい。
もう戦いたくない—。
どこまで走れば、どこまで頑張れば満たされるのだろうか。
そんな思いがぐるぐると心に溜まる。
マリコはうつむいた。

「マリちゃん、私ね—」
しばらく沈黙が続いた後、ゆっくりと涼子が話し始めた。
「私、新しく定期を買ったの」
「定期?」
「うん、定期。海外出張が多かったとき、私がよく使っていたソラチカのカード。あれ、マリちゃんまだ使っている?」
ああ、PASMOの青いカードはバリキャリの必需品だって、涼子から教えてもらって加入したのだ。海外出張時に使うとマイルがたまるカードだ。

「あ、はい、まだ使っていますけど…」
「事務職になってから、いったんあれ、解約したんだけど、また最近加入したの。今後は東京メトロ用の黒いカードのほうに」

黒いカード?
東京メトロ??

「これね、東京メトロに乗るとポイントがすごくたまるカードなの。海外出張にはもういけない。今の私じゃ無理。でもね、東京でまたイチからやってみたいって思って」
「イチから?」

「私、復活するの。営業職に—」

寝耳に水だった。
涼子は言葉を続けた。
「海外じゃなくても、日本の市場で活躍したい。子供がいても、たとえ時間が短くても」
「なんで営業職に…」
なんで、わざわざ大変な道を選ぶのか—。

「だって、好きだから。営業の仕事が」

涼子の視線。マリコは胸がぎゅっと締め付けられた気がした。
「オンナって、30歳近くになると病的に結婚したくなる時があるでしょ? でも、あれは思春期みたいなもんよ、ちょっとしたアラサー女子のセンチメンタル」
涼子も少し酒が回っているようだ。
「働くオンナは孤独だもの。そりゃ、そんなものに惑わされる時だってある」

オンナの孤独。
それは、独身だというだけの孤独さではない。

「涼子さんは…結婚したこと、後悔してますか?」
キャリアアップしても、結婚しても、どちらも何かしらの後悔がついてくるように思う。後悔を背負いながら生きる—それが、働くオンナの孤独さなのだ。

「そうねぇ」涼子は少し考え、
「このまま仕事をリタイヤしたら、ものすごく後悔する」と力強く言った。

だから復活するの—
涼子は、ぐぃっと、ワインを飲み干した。頬が赤くなっていた。

そうか、孤独に勝つために、復帰するんだこの人は。

「マリちゃん、今あなたが辛いのは、仕事に真剣だからよ。
そんなに真剣になれるものを、簡単には捨てちゃダメ」
そう語る涼子は、自分に言い聞かせているようにも見えた。

「まぁ、仕事やめてでも結婚したいほどの、イイ男がいれば…別かも、だけど…」 探るように聞いてくる涼子に対し、マリコはトホホ…と肩をすくめ、首振って笑ってみせた。
「そう。だったら、なおさらね」と、涼子も微笑んだ。

「不安…はないですか?」
いや、不安だらけだろう。
4年のブランク。
職場の状況、世の中の変化。
選んだ道のキツさは安易に想像できる。そして当然、この人は理解している。理解した上で、挑戦しようとしている。

「大丈夫、私にはスキルがある」
若い子には負けない—、そういって、ふふふと笑った。
涼子は昔から勝気だった。よく知っている。そういうところが、マリコは心から好きだったのだ。

涼子のスキル。
それは、バリバリの現役時代に培った仕事のスキルだけではない。
母としての、
人間としての、

—オンナとしてのスキルだ。

二人の目線が合った。
マリコは、やっと、涼子と同じ場所に立てた気がした。



エピローグ - 飛行機にて-

アメリカ帰りの飛行機。
マリコは、先日バッグに放り込んだままになっていたネックレスを発見した。
「あー、そっか。この前、絡まってて、しまっておいたんだっけ」
自分の無頓着さに軽く失望する。まぁしかし、過去の男からもらったプレゼントの扱いとしては、未練がない程度が上出来だ。
「ま、いいや、ほどいてみるか」
羽田空港まで、まだ時間がある。知恵の輪のように、暇つぶしくらいにはなるかもしれない。マリコはネックレスを取り出した。しかし、
「あれ?」
あれだけ、がんじがらめに絡まっていたネックレスが、スルスルと嘘みたいにほどけていたのだ。
「……」
拍子抜けした。
マリコは、ネックレスをつけてみた。そして飛行機の窓に自分を映してみた。
夜の窓に反射して映る自分。

—似合わない。
毎日つけていた、ゴールドのネックレス。それが、もう異様に似合っていないのだ。 咄嗟に、ネックレスを外す。そして、バッグにしまった。

「もう、必要ないんだ」
ふふふ。笑いがこみ上げた。なぜか、うれしかった。

日本に戻ったら、新しいネックレスを買おう。
ソラチカカードのANAマイルがそこそこ溜まっているだろう。それを使ってもいいかもしれない。

仕事をすればするほど、生き方を迷う。
たくさんの壁にぶち当たる。
それでもこの場所に戻ってくる。
負けるな。

オンナは、人生のポイントを積んでいく。






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