晩年のウォルト・ディズニーがもっとも強い関心を示していたのは、アニメーションやテーマパーク以上に、人々が生活を営む「都市」そのものをつくることだった。志半ばに彼はこの世を去ってしまい、都市計画は実現しなかったが、ウォルトの死から約50年。ついに、映画『トゥモローランド』(公開中)の中で形となった。
言わずと知れた「理想主義者」であるウォルトがどんな都市を構想していたのか。このたび、『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代』(角川oneテーマ新書)の著者であり、都市論や20世紀消費社会研究に詳しい編集者・ライターの速水健朗氏に検証してもらった。
"トゥモローランド"は「田園都市」と「ショッピングモール」の融合!?
シンプルに説明すると、ウォルトの理想とした都市とは、「田園都市」と「ショッピングモール」を掛け合わせたものだったようだ。「田園都市」は19世紀のイギリスの都市計画家であるエベネザー・ハワードが考案した都市モデルで、巨大な大都市ではなく、小規模の都市を都市の周辺に衛星上に分散させ、農村と都市のいいとこどりをした自然との共存を旨としたもの。職住近接のライフスタイルの提案でもある。
ウォルトの理想都市の構想は、この田園都市構想をベースに、中心から等距離の同心円状に道路が拡がり、商業地区と居住地区を分離され(さらに居住地区は、高密度と低密度に分かれている)、それぞれの層をモノレールで結んでいるといったもの。外の都市との行き来のための手段は、都市の中に存在する空港で離発着する高速ジェット機であるといった構想もあった。
この理想都市は、ディズニーランドに似ている部分も多い。夢の国であるディズニーランドは、見えている表の部分とバックヤードがはっきり分かれているが、この都市もゴミ収集のシステムはもちろん、交通事故を起こす自動車交通網も地下化されているのだ。
そして、このウォルトの理想都市と田園都市の最大の違いは、中心に核として置かれるのが巨大建築物であるという部分だろう。ウォルトは、都市の中央には、宿泊施設やステーション、ショッピングのための施設が併設される複合商業施設、つまりはショッピングモールをつくろうと目論んでいた。これは、ショッピングモールの生みの親といわれる、都市計画家のビクター・グルーエンの影響を受けてのものだ。グルーエンは、アメリカの大都市の中心部が持っていたような人々がくつろいで時間を過ごすことができるような公園やストリートを商業施設として実現させた人物である。実際、晩年のウォルトは、この核となる建築のモデルを探すために、グルーエンの手がけたショッピングモールの視察を積極的に行っていたという。
ウォルトの晩年、つまり1950~60年代は、全米の大都市が荒廃し、中流階級が次々と郊外へ流出していた時代である。街には、移民や貧困層があふれ、かつてあったような人々の交流は失われた。自動車の増加によって大気は汚染され、事故は増えた。都市にとっての暗黒時代だったからこそウォルトは理想的な都市の在り方を思い描いたのだ。
テクノロジーの未来を全面的に肯定した光り輝く未来都市
そんなウォルトの理想とする都市は、現実には完成しなかった。実際にフロリダに土地も取得したし、インフラの整備もかなりのところまで進んでいたようだ。だが、志半ばに彼はこの世を去ってしまい、途中まで手がけていた計画は大幅に変更。その計画予定地に実際にできたのは、フロリダのディズニーワールドである。
ウォルトの理想都市には「EPCOT」というプロジェクトコードがついていた。これは「実験未来都市」(Experimental Prototype Community of Tomorrow)の略である。映画『トゥモローランド』では、この実現しなかった実験未来都市「EPCOT」がモチーフになっている。ウォルトの考えた理想都市は実現しなかったが、異次元の世界には存在している。そして、そこに行くことができるのは、選ばれし者、未来を信じるドリーマーのみなのだ。
『トゥモローランド』で描かれる都市は、テクノロジーが切り開く未来を全面肯定した光り輝く未来都市だ。街の中心には塔の形をした超高層ビルが郡立する。そして、おそらくその中心付近にジェットコースターのようなマスドライバー式の宇宙空港がある。人々は背中にジェットパックを背負って飛び回っている。地面衝突しそうになると、着ている服がエアバッグのように膨らんで衝撃を回避する。街のあちこちには、宙に浮いた水のプールも存在する。この未来都市では、H2Oの重力を自由に制御できるようだ。
ここまでテクノロジーが切り開く未来を肯定的に描いた都市像は、かつて見たことがなかったかもしれない。都市の造形としては、「EPCOT」の構想そのままではない。だが、このような未来の空中都市は、1960年代、ウォルトの晩年の時代にはよく描かれていたものに近い。チューブのなかをエアカーが走り、動く歩道で人々は移動し、中心部には超高層ビルが建ち並び、人々はカプセルで居住しているといったような都市像が「未来」として描かれた時代である。
建築評論家の五十嵐太郎は、こうした「未来都市」のような「未来学」の時代は、高度成長期の終了とともに失われていったと指摘する。「大量生産のモダニズムが終わると、もはや大風呂敷の未来像は小刻みな資本の動きに対応しない。日本は大阪万博が転換点となり、建築家は都市のヴィジョンから撤退する」のであると。
映画における都市の描き方も変化 -『トゥモローランド』が放つメッセージとは?
テクノロジーの未来をネガティブに描いた都市像は、1960年代にもあったが、それはユートピアの裏返しだった。だが、それ以後の映画における都市の描き方は、時代状況を反映させるものに変わっていった。
『ブレードランナー』(1982年)に描かれた未来の都市は、酸性雨が常に降り続き、アジア系民族であふれているというものだった。クルマは空を飛ぶが、同時に「強力わかもと」の広告も浮遊している。アジアからの移民増加、消費社会の前面化など、当時のアメリカの社会問題の延長としての未来都市が描かれたのだ。
もっと最近の映画でいえば、2013年公開の『エリジウム』。ここでは、人口が爆発し、貧困地域が延々と広がっているスラム都市が描かれていた。あらゆる病気を治すマシンが存在するほどにテクノロジーは発展しているが、これを享受できるのは富裕層のみ。その富裕層は、地球の圏外にコロニーを建設して移住済みである。こちらは、スーパー富裕層と労働者の間の格差の固定化の延長の未来都市である。
映画『トゥモローランド』は、テクノロジーが切り開く未来など陳腐化した時代にもう一度テクノロジーの明るい側面を見直そうというメッセージに貫かれている。テクノロジーや現代のネガティブ部分だけを映画や表現がピックアップしすぎるから、現実も暗くなるんだとばかりに。
ヒロインのケイシーは、スペースシャトルの事業から撤退し、打ち上げ台を撤去しようとするNASAの作業を妨害する。現代は収益性が悪ければ宇宙開発だって縮小されてしまう時代。シャトルの打ち上げ台の解体はその象徴。現代がイノベーションの停滞期であるということは、シリコンバレーの投資家で『ゼロ・トゥ・ワン』の筆者であるピーター・ティールも主張しているとおりだ。
インターネットがあるじゃないか、という声も聞こえてきそうだが、それこそ夢がない場所に急速に近づいているだろう。ネットが実現するすべての情報が自由にやりとりされる世界だとか、リバタリアン的共和国であるとか、平等社会だとかその手の理想主義者たちの夢は、実現しないということが露呈した。だけど、それでもまだテクノロジーには夢がある。それが『トゥモローランド』のテーマなのだが、それを空虚と捉えるか、まだまだテクノロジーにわくわくできるのか。それは、映画館で確認してほしい。
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