水戸芸術館で製造・販売を開始した『納豆とチーズの恋物語-なっちぃ』。このなっちぃの重要なキャラクターである"ごけんゆかり"おねえさんに扮するのはアーティスト・飯田淑乃さん。飯田さんは各地で展覧会を行うたびに、その土地をイメージしたキャラクターに自ら扮し、キャラクターに関連したオリジナル曲やグッズを作ってきた。音楽については、そのビデオクリップを作るまでの念の入りようだ。
2005年に当時、成安造形大学在学中に大阪で手がけたOLアイドル『船場みずき』にはじまる。船場みずき名義で「ビルのすきまで逢いたい」という曲をリリース。次に長崎では実在する場所である「女の都(めのと)団地」からデビューした人妻演歌歌手『女の都まりこ』として、京都では『桃山ヘレン』という政治家、金沢ではジャズシンガー『Yoko Yasue』になった。2007年には名古屋で行われた個展「ゴヤフェチ」(このゴヤは画家のゴヤではなくナゴヤのゴヤ)において、悪と戦う美少女戦士『大須あかね』というバリバリのアイドルに扮し、CDとDVDもリリースした。その後、水戸のごけんゆかりを経て、最新作は、ドイツのドルムント市で、仙台からやってきた庭師『飛鳥ズンダーヴェック』としてテクノポップ調の曲「GÄRTNERIN(庭師)」でデビューした。
左上から「船場みずき / ビルのすきまで逢いたい」、「桃山ヘレン(CDなし)」、「大須あかね / ゴヤフェチ」、「YOKO YASUE / ANOTHER MOVEMENT」、「ごけんゆかり / ねばねば なっちぃのうた」、「飛鳥ズンダーヴェック / GARTNERIN(庭師)」 |
このような表現手段を用いた作品を創作している事について、飯田さんにお話をうかがう事ができた。
--どういったところからキャラクターのイメージを決めているのですか? それと飯田さんには強い変身願望でもあるのでしょうか?
「ご当地キャラクターを自分で演じることで、地方が持つアイデンティティを他者の視点からあぶり出せればと思っています。その為にどの作品も、どこかご当地のイメージを勘違いして捉えた設定にしています。実はそのキャラクターを自分でやりたいわけではないんです。でも、"創りたい"という欲求の方が大きくて、自分がやることになってしまっています。芸能界に憧れているというわけではないのですが、テレビが好きで、そういうアイドル、つまり"偶像"が作り上げられていく仕組みに興味があって、作品として自分で自分をプロデュースしてしまった、という事もあるかもしれません」
--なっちぃの場合はどういう経緯で、うたのおねえさんになったのですか?
「うたのおねえさんにしたのも、やはり勘違いとしてイメージをずらしています。最初はうたのおねえさんではなく、相撲取りだったんです。なんか水戸って相撲のイメージを勝手に持っていて、ところが実際にうかがったら全然そんな感じじゃなくて(笑) それに、まさか肉布団を着てやるわけにもいかないし、何度か水戸に行くうちに、やさしい街だな、と感じるようになったんです。それは水戸芸の雰囲気も影響したかもしれません。前庭なんかそんな感じで、N○Kの「み○なのうた」にでも出てくるような。そういう素材についてはテレビでよくチェックしていますし、YouTubeで見て参考にしています」
--キャラクターグッズやコスチュームなどはやはりご自分で制作されるのですか?
「衣装も自分でチクチクやってます。これがなかなか大変で。最新作の飛鳥ズンダーヴェックは庭師なんですが、女性が着られて、しかも黄色のニッカボッカがなかったのですが、ついに大阪で見つけました。地下足袋までいくとやりすぎだと思い、クールなスタイルにするためにハイヒールにしました。ほとんど自分で手がけています。作品によって作曲の方は違うのですが、近年の楽曲は、関西在住のゲーム音楽を手がけている方にお願いしています」
--これまでどんな反響がありましたか?
「大須あかねの時は2chでスレッドがたちました。ところがアートではなくて、芸能スレだったんですけど(笑) そのとき音楽番組出演の依頼もあったのですが、やはりタレントだと勘違いされたようです。飛鳥ズンダーヴェックはドイツのドルムントでデビューしたのですが、市長が見に来てくださって、作品を購入していただきました。現地の美術館に展示予定だそうです」
--最初からこうした自由な表現活動を行おうとしていたのですか?
「いいえ。大学は油絵に入ったのですが、従来からの展示の仕方や絵画の表現方法に疑問を持つようになって、途中で構想表現クラスに移ってからですね。絵画は描く側は楽しいと思うのですが、見る側はその3分の一も楽しめていないのではないかと思います。いまはさまざまなメディアが溢れ、多様化している社会ですので、それにあった表現方法があるのではないかと思っています」
--絵は子どもの頃から描いていたのですか?
「はい。実家が浅草で料理屋をやってまして、子どもの頃は放っておかれていたので、絵を描いているか、寅さんのファンだったので寅さんのビデオを見たりしてました。撮影の時、店によく渥美清さんがいらっしゃって、絵が好きな子どもがいるのを覚えていてくださって、似顔絵を描いては渥美さんに渡すと、鶴に折ったお札をお小遣いにくださいました。考えてみると、はじめて作品が売れたのかもしれませんね。」
飯田さんは、このご当地キャラクター作品を日本全国でやってみたいと語っている。全国各地で勘違いの恋をするキャラ作りをする。これはまさに車寅次郎の影響では!? アートの寅次郎、次はどこの町に現れるのか楽しみだ。