そっと覗いてみて想像してごらん
テレビの情報番組で「親子留学」という流行を特集していた。母子が揃って海外移住し、子供たちは現地の学校へ通い、父親は日本国内の自宅に一人で残る。子供の教育環境を整えるために家族の一部が海外移住する様子は「逆単身赴任」と形容され、欧米より物価が安く生活しやすいアジアの国々が人気、という報じられ方だった。
取材を受けたマレーシア在住の母子を見る限り、年間の学費や生活費は国内の私立校へ進学させるのとそう変わらない印象だ。大学キャンパスのような開けた校風、国際色豊かなクラスメイトたち、もちろん中国語も必修で、科学や数学の授業は英語で受ける。実際の学力レベルは詳しくわからなかったが、日本にいるより進路の選択肢が広がることは間違いない。留学経験のない私の目には羨ましいことばかりだった。
ところが日本語圏ウェブで感想を検索してみると、「マイホームに残されたお父さんが寂しそう」「母親の身勝手に振り回されて子供がかわいそう」「夫を便利な財布としか思ってないのか」「最初から外国人と結婚すればよかったのに」「離婚したほうがいい」……目を疑ってしまう。「離れて暮らすなんて家族じゃない。一緒に暮らしてこそ愛情を確かめ合えるのに。こんなの子供に逆効果。人間的成長を阻害する」というコメントもあった。いやいやいや、たかだか数分の取材VTRを見ただけで他人様の家庭環境を全否定できちゃう、あなたの人間性は、どうなの……?
彼らはきっと、転勤や単身赴任のない仕事によって家計が支えられる家庭に育ったのだろう。世の中には、自分が実際に経験したこと以外にはまったく想像力が及ばない人々、自分が味わった成功体験の道筋以外はどのルートを辿ってもすべて失敗に至ると考えたがる人々がいる。二親が揃って、国内に居を構え、家族がつねに寝食共にして、地元でごく普通の教育を受け、ごく普通の社会人となった自分が「幸福」であるならば、それ以外の方法でそれ以上の「幸福」を味わえるはずがない。もし羨ましく思えたとしてもそれはまやかしで、あの葡萄は酸っぱいに違いない、というわけだ。
俺の手紙は俺が書く
しかし、家計を支える者が出稼ぎで長く家を空けるなんて昔からよくある生活スタイルだし、中学高校から寮生活や一人暮らしで親元を離れる子供は日本国内にもたくさんいる。どんな形態の家族にも幸と不幸はそれぞれつきまとう。「寂しそう」はともかく「かわいそう」とまで言われてしまうと、私だって反論したくなる。
件の番組では、留学中の小学生女児が学校で家族構成を訊かれ、父親を勘定に入れず「三人」と答える様子と、四人家族用のリビングでひとり夕食を摂る父親が「やっぱり寂しいですね」と苦笑する様子が、コミカルに描写されていた。どちらも正直者だ。我が家の父親は仕事の都合で海外出張が多く、働き盛りの頃は年単位の単身赴任を繰り返していた。たまに絵ハガキが届く以外、年単位で父親の存在をすっかり忘れていた私には、懐かしい苦笑いだった。
小学生の頃だったか、そんな父不在の我が家に大人たちがドヤドヤ訪ねてきて、父母の友人を名乗り、酒に酔って私たち姉妹に説教を始めた。
「お父さんは異国の地でたった一人お仕事を頑張っているのに、君たちはその有難味がまるでわかっていない。お父さんがかわいそうだ。今すぐ手紙を書きなさい。離ればなれで暮らしていると、家族の愛が途絶えてしまうよ!」
お言葉ですが、と私は大人に食ってかかった。父は、我が家の何倍も広いメイド付きの屋敷を社宅にあてがわれ、得意の語学力を活かして好きな仕事に邁進し、そして立派に成果を出して、それで私たちを養ってくれているのです。どこが「かわいそう」なんですか。国際電話はいつでもできるし、飛行機に乗れば数時間で会いに行けます。めちょめちょ湿っぽい手紙を綴って家族愛とやらが伝わるなら安いもんですが、我が家の絆は我が家のもので、私の手紙は、出したいときに私が出します。
今思い出しても腹が立つ。私の人格が破綻していたり人間性に問題があったりするとして、それは私個人の責任だ。同様に、離れて暮らす父が感じる寂しさは父個人のもので、あなたが私に強いるものではない。ついでに言うと、子供がいる前で母親に「やっぱり旦那さんがいないと毎日寂しいでしょ?」と半笑いで執拗に訊くのもやめていただきたい。それが気遣いではなく寝室事情の詮索であることくらい、子供の私にだって理解できた。あなたの口にする「いつも一緒にいてこそ確かめ合える」愛とやらが、その程度の意味ならば、ますます口出しされたくはない。
勤務地が重なるその前に
先日、とある結婚の話を聞いた。学生時代からの恋人同士が結ばれて数年経つが、一度も一緒に住んだことがないのだという。いわゆる「別居婚」である。夫は大手企業のサラリーマン、辞令一つで世界各国の支社を転々としている。妻のほうは東京の小さな職場で替えのきかない仕事をしていて、完全にすれ違いの毎日。まさかそんな生活になるとは、さぞ大変でしょうね、と問うたら、こんな答えが返ってきた。
「いえ、逆です。私たち、生活がすれ違うから、結婚することにしたんです」
一緒に大学を卒業して、それぞれ好きな仕事に就いた。同棲を始める前に転勤が決まり、それからずっと遠距離恋愛を続けた。二人の関係は揺らがないが、このままでは何かと面倒が起こるだろう。「だったら、先に結婚しちゃおうと。法律上夫婦でいれば、外野にうるさく言われなくて済むでしょ」とのこと。
「そんな仕事人間とは早く別れて地元で身を固めろ」と勝手な見合いを持ちかけてくる親戚も、「きっと彼だって本音はあなたについてきてほしいのよ、行って支えてあげなさいよ」と無根拠な憶測で寿退社を勧める女友達も、黙らせるには先手を打って「結婚」すればよい。遠距離恋愛や事実婚を続けるより気が楽になった、紙切れ一枚で「別居生活を続ける自由」が手に入るんだもの、と彼女は言った。
似たような境遇で子供がいる夫婦もあるのだそうだ。産休期間だけ夫の海外赴任先へ合流して一時同居し、そちらの病院で出産した女性もいるらしい。
「生まれた子供が二重国籍を取得できるの、何かとおトクじゃない? 臨月で飛行機乗って出かけて行ってポーンと産んで、乳飲み子抱えて帰ってきたわよ」
結婚して初めての共同生活が、いきなり海外で、いきなり親子三人、そしてすぐまた別居。驚きの連続だが、考えてみれば一つ一つの事象はさほど特殊でもない。働く女性が一人で育児するのは大変だろうが、同居さえしていれば男親が役に立つかというと疑わしいものだし。どんな形態の夫婦にも、不便や理不尽はつねづねつきまとう。優先順位の決め方、解決法の編み出し方、幸福の見つけ方は、人それぞれだ。
結婚は世界のパンツか!
同居しただけで自動的に発生する一方で、物理的な距離を置くと跡形もなく消えてしまうという、そんな、あるかないかも疑わしい「愛」なら、最初から存在しないものと割り切って暮らせばいいのではないか。
一緒に暮らし、外からではわからない見苦しい姿をすべて晒し合い、その人のパンツを毎日洗い続けられるかどうかで「愛」が測れるというのも、いざ結婚してみると、ただの迷信だったなぁと思う。実際には夫のパンツを洗うとき、いちいちそんな感慨を抱いたりしない。家事分担なんて互いへの感謝の念があれば十分に回していけるし、全部メイドにやらせたところで、それを理由に夫婦に「愛」が無いと言うのは馬鹿げている。家事は家事で、愛は愛だ。
実家を訪ねてたまに顔を見る父が、何年ぶりでも昔と変わらず、私の愛する父であるのと同じように。彼ら彼女らもまた、どんなふうに暮らしていても「夫婦」であって、離れているから「愛」が「破綻」しているだなんて、誰にも決めつけられない。
人はパンツを洗い洗われるためのみに結婚するのではない。「せっかく『結婚』もしたことだし、いずれは『同居』もしてみたいんだよねー」と朗らかに語る彼女の、今ここに形作られている生活のほうが、私にはよっぽど信じられる。
<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。
イラスト: 安海