古くは江戸時代、温泉は原則として自然湧出だから、混浴が当たり前であったそうだ。時は流れ幕末、下田沖に黒船が来航。あのペリー提督が日本の温泉場の混浴に驚いたという文献が残されている。明治新政府は、欧米の目を意識して混浴の慣習を封印する方向に政策を進めたという。しかしながら、混浴は温泉文化の原点である。最近、それを「文化」と捉えない方がおかしいと深く感じた体験を得た。
世界に魅了する混浴文化
2月に訪ねたばかりの静岡県伊東温泉の老舗・陽気館は、漁師料理を宴席料理に熟成させた料理旅館として、また、館内に登山電車のようなエレベーターがあることで人気のある宿だ。そして、ここにはもうひとつ、大きな個性がある。相模灘に浮かぶ初島を見下ろせる絶景の露天風呂だ。しかも、今時、貴重な混浴(女性専用時間あり)なのである。
この宿は外国人観光客が多い。老舗という点、純粋な昔ながらの料理旅館であるという点、そして露天風呂があるからでもあろうか。現オーナーが帝国ホテル出身という点も影響しているかもしれない。各地方自治体の公衆浴場条例の規制により、一度でも取りやめると新たに造ることができない貴重な「温泉文化」が混浴だと筆者は思う。
陽気館に着いてすぐ、外が明るいうちに絶景を味わおうと、名物の露天風呂を目指した。風呂に向かう途中、浴衣姿の若い白人男性と出くわした。「海外の方と一緒に風呂に入るのも一興か」と思い、そのまま歩みを進めると、何とその白人の女性パートナーとも一緒になった。
私は遠慮する旨を片言の英語で伝えたところ、「問題ないから一緒に入ろう」と英語とアクションで強く勧められた。必要以上に断るのも失礼な気がしたので、ご一緒することにした。生まれたままの姿でアメリカ人カップルと3人、絶景の露天風呂を味わったのだ。なぜか、青い目のふたりに「温泉文化」の原点を教わった気がした。
まご茶漬けにこだわる理由
さて、スペシャリテの話である。伊東温泉は常春の伊豆半島の東海岸、東京から120kmほどの距離にある。天城山系を背に伊豆最大の漁港・伊東港があるため、朝に夕に新鮮な魚介類が水揚げされる。当然、この宿のスペシャリテは魚介料理なのだが、私の記憶にはなぜか、献立の主役ではない、〆の「まご茶漬け」が残っているのだ。
下味を付けたアジのタタキに、だし汁やお茶をかけて食べるもので、元々は船上で食された漁師料理である。この宿では「料理長特選料理プラン」と「一人旅プラン」でのみ、食事の〆に出される。
宿泊客のプライベートを重視する傾向にある最近では珍しくなった部屋食が中心の宿。そして魚料理となれば、お酒も進む。もちろん、どの料理もバツグンの味で、特にブイヤベースは汁を残さずに完食、絶品だった。
しかしながら、強く記憶に残ったのは「まご茶漬け」。単品で注文する場合のまご茶漬けはだし汁(鰹だし)を使用するそうなのだが、酒宴の中で刺身や金目煮付け、海鮮鍋など、少々重めの料理の〆としては、あえて「ほうじ茶」を注ぐという。さっぱりと食事を終えてほしいという、オーナーの気遣いである。心がこもっているから、記憶に残ったのかもしれない。
旅先の食とは単純に何かを食べる行為ではない。どのような環境でどのような提供方法でいただくかを旅先では大事にしたいと思う。
館内専用の登山電車で露天風呂に直行
意外に知られていないだろうが、伊東温泉は全国4位の豊富な湧出量を誇っている。ロビー階から館内専用の名物・登山電車が、傾斜度45度、距離30mの斜面をゴトゴトと宿泊客を露天風呂まで運んでくれる。晴れた日中は、初島や房総半島が遠望でき、夜は満天の星空のなかの長湯がオススメだが、くれぐれも混浴であることを忘れずに。男性はマナーが問われることを申し添えておきたい。
露天風呂は「塩化物泉」、ロビー階にある内湯は「単純温泉」と、泉質の違うふたつの源泉を持つ。どちらも掛け流しである。露天風呂は15人ほどが入れる広さで、浴槽は通常よりも深めで湯舟の底に尻をつけると胸の高さほどある。塩分が強い湯だが、湯上り後は意外にべたつかず、サラリとしている。
1階の男女別内湯は、無色透明のやわらかな湯で、露天風呂の源泉(塩化物泉)52℃を若干加え、適温にしている。だから、どちらも加水加温を行っていない。
この心配りゆえ、世界に愛される
館内に登山電車があるぐらいだから、バリアフリーとは程遠い造り。登山電車が辿りついた先に絶景の露天風呂があるということは、斜面に張り付いたように建っているのだ。そんな造りの昔ながらの温泉宿では毎日、スタッフが額に汗して部屋に料理を運び、宿泊客をもてなす。こうした無心の働きが世界中から日本文化を求めて訪れる訪日外国人客の心に届いている。
月間3億人以上が利用する世界一の口コミサイト・トリップアドバイザーで、「人気の旅館・B&B・イン・トップ25-日本」で14位にランクインされている由縁である。宿泊客の身体を按(あん)じ、宴席ではまご茶漬けの出汁をほうじ茶に替える気遣いこそ、この宿の真のスペシャリテなのかもしれない。
●information
陽気館
静岡県伊東市末広町2-24
アクセス: JR東日本・伊豆急行「伊東駅」からタクシーで約5分。伊東駅間は同館運賃負担にてタクシー送迎あり
1泊2食料金: ひとり税別1万4,000円~
筆者プロフィール: 永本浩司
通信社編集局勤務、広告ディレクター、雑誌・ビジネス書の編集者を経て、観光経済新聞社に入社。編集委員、東日本支局長などを歴任。2004年に転職を決意、外食準大手・際コーポレーションに入社。全国に展開する和洋中華350店舗128業態のレストラン・旅館の販売促進を担当。リゾート事業も担当、日本初、公設民営型の公共事業、長崎県五島列島・新上五島町にリゾートホテル・マルゲリータを開業させた。2015年、宿のミカタプロジェクトを設立。1軒でも多くの旅館・ホテルを繁盛させ「地域の力」を呼び覚ますべく旅館ホテル支援事業を展開。宿泊した旅館の数は全国で数百軒以上、年間の出張回数は150日以上、国内を中心に飛び回る日々。地域デザイン学会会員。