職業柄「どんな宿が一番いいのか」と、少々乱暴な質問をされることがある。最近は、特に反論することなく本音で「旅人も宿の人も気取らないで済む雰囲気を保てる宿でしょうかね」と答えたてみたりする。だから、料理も郷土色豊かな田舎料理が好きだ。群馬県みなかみ18湯・猿ヶ京温泉の猿ヶ京ホテルは、そんな宿のひとつだと思う。
日本庭園の中に美人の湯が満ちた露天風呂あり
「猿ヶ京」という地名から山中をイメージされるだろうが、新潟県と群馬県を結ぶ三国街道沿い、群馬県側のダム湖・赤谷湖の畔にある。風光明媚なのに交通が利便な温泉地なのだ。温泉地の名付け親は、戦国時代に越後から関東へ進出するための拠点として滞在した軍神・上杉謙信と言われているから歴史は古い。
無色透明のカルシウム・ナトリウム-硫酸塩泉は肌に優しい美人の湯。これほどの規模の湯舟で、内湯、露天風呂とも源泉かけ流しは珍しい。眼下に湖を見下ろす日本庭園には大きな露天風呂があり、藤の花の季節は特にオススメである。
「旅館料理に豆腐(富)!? 」というなかれ
最初にばらすと、この宿のスペシャリテは、豆富料理である。「豆腐」を「豆富」と書くことにしている。なぜ、豆富なのか? ここの大女将は地元でも著名な民話収集家&語り部で、毎日、夕食後に大女将やお弟子さんの民話が聴けるのだ。まずは実演の餅つきからスタート。その後、できたて餅をいただきながら民話を拝聴する。これも宿の名物。
猿ヶ京周辺には、豆富にまつわる民話が数多く残されている。「豆腐仙人」「花びら豆腐」「豆腐屋と左じん五郎」「田楽法師」「豆腐姫」「豆腐の助」「豆腐のくどき」「豆腐じぞう」などという民話が語り継がれているそうだ。平成元年の頃、地元の民話を収集していた大女将が、民話を聞きに語り部の古老を訪ねた際、手づくりのおいしい豆富でもてなしを受けた。これがことのほかおいしく、とうとう宿の敷地内に本格豆富工房を造り、毎日、作り続けているというわけなのだ。
素朴だからこそ素材にこだわる
猿ヶ京を含む群馬県北部の利根沼田地方は、正月・祭り・婚礼などのハレの日、あるいは田植えで人出を頼む時などに特別な料理として豆富を振る舞った。だから、豆富は日常食ではなく「おごっつぉう(ごちそう)」なのだ。必然、豆富の原料となる大豆の生産も盛んである。地元に湧く三国山系の豊かな水がある。条件はそろっているが、シンプルな食材ゆえに素材選びと製法にはこだわりがあるという。
水にひと工夫を施すことで、味わい深い豆富づくりを完成させた。それは、電子チャージャーと呼ばれる装置により、水の分子(クラスター)が小さい、浸透度の高い「電子水」を生成していること。この電子水に大豆を8時間も浸けておく。「摺る~煮る~搾る」の、全ての工程にこだわっているという。
一方で、こだわり豆富のの副産物として上質の「豆乳」と「おから」ができるため多品種の豆富料理が出せるのだという。ちなみに、豆富と合わせて、大豆を主原料とする味噌も自家製。何事にもこだわる宿なのだ。
夕食から朝食ブッフェまで「豆富30珍」
「豆富30珍」という多品種の料理があるというから、とても紹介しきれない。よって筆者の記憶に残っている豆富料理を一部、ご紹介しよう。
まず、夕食で目を引くのは「引き上げ湯葉」。自家製の新鮮な豆乳を卓上で湯煎し、表面に張った湯葉を引き上げ、わさびの利いた「くずたれ」でいただく。客が自分で湯葉を作って食べる演出だが、自社工房がないとできないぜいたくな料理である。
一方、「スモーク・ド・トーフ」は、絹ごし豆富に重しを乗せて一昼夜、十分に水を切った後、西京味噌をベースにした味噌床に3日間も漬け込む。さらに、その味噌漬豆富をサクラのチップで燻製にするという手間のかかった逸品。スモークチーズのような独特の味わいが日本酒にもワインにも合う。
更に「豆乳しゃぶ」は、豆乳に鳥がらスープを合わせた特製「豆乳すーぷ」と自家製胡麻たれでしゃぶしゃぶを楽しむ豆富懐石の名物料理で、採れたての野菜とともに群馬産のブランド豚「群馬もち豚」「上州麦豚」「下仁田ポーク」3種の食べ比べが堪能できる。
変わり種では「唐揚げ豆富」。絹ごし豆富を十分に水切りした後、表面に唐揚げ粉をまぶして油で揚げた創作料理で、サクッとした食感のあと、つるんとした豆富が口の中に広がる楽しさがある。
当然、豆腐工房ではオカラも出る。夏季には「卯の花」、冬季には「きらず」という、ひと手間を加えたオカラ料理が供される。シメは、「焼きおにぎり豆水仕立て」という焼きおにぎり茶漬けの「豆水」版。焼きおにぎりに「出汁」を注ぐ代わりに、かつお・昆布・豆乳などで仕立てた「豆水」を注ぐ絶妙の一品だ。
このほか、「白胡麻豆富」「枝豆豆富」「花豆富」「柚子湯葉豆富」「蟹味噌豆富」「あんきも豆富」「蕗味噌豆富」「絞り高野豆富炊き合わせ」「洋風茶碗蒸し豆乳クリームスープ」「豆富かまぼこ」など、豆富料理とは、これほどまでバリエーションを広げられるのだろうかと感嘆する。27年間の創意工夫の賜物であろう。豆富ジェラート、豆富カステラいったスィーツにもこだわっている。
豆腐屋さんの朝食バイキング
この宿の朝食もオススメで、眼下に湖を望める会場には手作り感満載の田舎料理が並ぶ。「黒豆納豆」「小池さんちのがんもどき」「豆富ちくわ」「できたてすくい豆富」「上州おやき」「味噌焼おにぎり」「焼きたて豆乳パン」など手間を惜しまない逸品ばかりだ。早起きの豆富屋さんが丹精込めて作ったという印象のブッフェである。
今や、「一生に何回、旅行ができるであろうか」という時代ではない。日頃のストレスを取り除くための欠かせない風物詩となりつつある温泉旅行。豆富料理、民話、美肌泉質の源泉かけ流しなど猿ヶ京ホテルの伝統は、気取らない雰囲気を醸す。肩ひじを張らない今風の旅に適していると思う。
おっとりとした風土と感じる猿ヶ京温泉。ひょっとすると、この宿の真のスペシャリテは「地域の食文化と民話を伝えるこだわり」なのかもしれない。
●information
猿ヶ京ホテル
群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉1171
アクセス: 上越新幹線「上毛高原駅」からバスで35分。駅から送迎あり
1泊2食料金: ひとり税別1万4,000円~
筆者プロフィール: 永本浩司
通信社編集局勤務、広告ディレクター、雑誌・ビジネス書の編集者を経て、観光経済新聞社に入社。編集委員、東日本支局長などを歴任。2004年に転職を決意、外食準大手・際コーポレーションに入社。全国に展開する和洋中華350店舗128業態のレストラン・旅館の販売促進を担当。リゾート事業も担当、日本初、公設民営型の公共事業、長崎県五島列島・新上五島町にリゾートホテル・マルゲリータを開業させた。2015年、宿のミカタプロジェクトを設立。1軒でも多くの旅館・ホテルを繁盛させ「地域の力」を呼び覚ますべく旅館ホテル支援事業を展開。宿泊した旅館の数は全国で数百軒以上、年間の出張回数は150日以上、国内を中心に飛び回る日々。地域デザイン学会会員。