ここ2回堅い話題が続いたので、今回は少し柔らかいお話にいたしましょう。

亡き本田美奈子さんが母親役を演じたミュージカル『ミス・サイゴン』

1989年ロンドンのウェストエンドを皮切りに、1991年にはニューヨークのブロードウェイで上演されたミュージカル『ミス・サイゴン』。日本には1992年になって東京の帝国劇場で上演されることになりましたが、今年からまた再演が始まっています。

今となっては20年も前の話になりますが、当時はバブルの名残もあって、広告料もまだまだたっぷり計上できたのでしょう。誌面、電車の中、東京中のあちらこちらで上演を知らせるポスターを見かけたものです。そうなると、俄然観たくなるというのが人間の心理。そんな時に知り合いからチケットを譲り受けたのが最初の観劇でした。

時はベトナム戦争までさかのぼりますが、頬の肉がげっそりとこけ、疲労の色が隠せない一人のベトナム人女性。顔をしわくちゃにして泣きながら自分の娘を父親(米軍兵)の待つ米国へと送り出す。ベトナムのタン・ソン・ナット空軍基地での母と子の別れ際の様子が、一枚のモノクロの写真に残されています。この写真に作詞家の一人が触発され、作られたのが「ミス・サイゴン」でした。

『ミス・サイゴン』オリジナルポスター

母子は二度と会えないのだろう、という悲劇。それでも娘に米国でのよりよい生活をと望む母は送り出す決意をする、その思いは劇中の挿入歌である「命をあげよう」に現れています。『あげよう私に無いもの、大人になって掴(つか)む世界…』と歌い切ったのは、今は亡き本田美奈子さんでした。アイドルのイメージが払しょくされていなかった彼女が母親役のキムにキャスティングされた時は誰もが意外と思ったはずです。しかし、実際に彼女の歌声、立ち居振る舞いを見て納得。細身ながらも浪々と歌う様子は、当時のベトナム人の方々の置かれた窮乏と母の強さとを見事に演じていました。

『ベトナムのダーちゃん』という本の影響もあり、何度となく足を運ぶ

劇中に実物大のヘリコプターが登場するスケール感、あるいは帝国劇場100年の歴史上でも異例のロングランなどでも話題になりましたが、私自身が魅かれたのは小学生の頃に買ってもらった『ベトナムのダーちゃん』という本の影響だったのかもしれません。今となってはその内容すら、ベトナム戦争に翻弄された一人の少女の話ぐらいにしか覚えていないのですが、この本に出会って以降、特に庶民の目線で描かれた戦争文学にのめり込んでいった我が身の読書歴を考えると、一方ならぬインパクトがあったのだと思われます。そういった伏線もあってか、そして本田さんを始め、演者の皆さんの歌声に魅かれて、このミュージカルに何度となく足を運びました。

今回の公演で当時と同じ配役なのは市村正親さんだけのようです。彼が演じるエンジニアはひたすら「アメリカン・ドリーム」を追い求めるベトナム人という役どころです。軽佻浮薄(けいちょうふはく)で打算的、それでも憎めない存在となっているのは、その明るい無節操さも、風見鶏であることも、長らく戦時下となったベトナムの困窮から、底辺で生きる人たちが抜け出すためには必要だったはずと、観る者を納得させるからでしょう。上り詰めてみせるというハングリー精神も、そこまでやれば「あっぱれ」と言わざるをえない。決して褒められたものではないのですが、強靭なまで信条が高い理想のように思えるのですから不思議なものです。そして役者の力量は恐るべしです。

ロンドン、NY…国際比較の結論は、キムは本田さん、エンジニアは市村さん

こうした難しい役回りの多いミュージカルであるがゆえに、本場のロンドンやニューヨークではいったいどんな役者の方がどのような演技をされるのかと興味が沸きました。「ミス・サイゴン」の国際比較には足掛け数年を費やしましたが、ロンドンのドリューリーレーン劇場にも、ブロードウェイ・シアターにも行って参りました。

ロンドンもニューヨークも超一流の役者さんであるのは間違いない、歌も演技も素晴らしい、しかし何かが違う-。

はかなげなキムを演じるには海外の役者さんの体格はいささか立派過ぎました。海外の大御所の演技に威厳は感じてもその重厚感ゆえに、客引きのエンジニアの浮薄さと上昇志向への信念との微妙なバランスが滲み出てこないのです。人種差別だとお叱りを受けそうですが、そもそもアジア人を欧米の方が演じるには無理があるのではなかろうか―。貧しさの中で生まれるしたたかさや、アジア人が持つ繊細さやしなやかさの中にある強さのようなものがどうも物足りない。私の中での国際比較の結論は、キムは本田さん、エンジニアは市村さんということになりました。

「国を捨てる」のは、本来"命懸け" - 日本のよりよい道を模索すべき

相変わらず"危機本"と呼ばれる類が書籍売り場を賑わし、メディアも日本経済に対して悲観論一色のようです。中には「日本が沈没する」あるいは「日本経済が破綻する」などと言って、資産防衛のために日本を捨てて海外移住を吹聴する声もあります。国を捨てる、捨てざるを得ない状況であるということはいったいどういうことなのか。「ミス・サイゴン」では命懸けであることを訴えていますが、本来はそうした覚悟が必要となることです。

資産家の方も日本に経済基盤があったからこそ、今の資産があるはず。仮に日本の先行きに心配があるのなら、自分の資産を守るために国を捨てる発想をするよりも、よりよい方向に進むにはどうすべきか、それ考えるのが先と思われます。その方が海外移住などより、よっぽど効率的でもあるはずです。

治安も良く、国民も温和、豊かな自然がありつつ、経済力でも技術力でも世界有数を誇る、例をあげればきりがありませんが、海外から見れば憧れの国日本を捨てて、いったいどこにいくつもりなのか。

その一方で、矛盾すると思われるかもしれませんが、若い方はどんどん海外に行って見聞を広めてもらいたいと思います。いつでも帰れる素晴らしい母国があるのですから、さもしい理由ではなく大いなる活躍の場を求めて出かけていって欲しいものです。それが将来にもつながる日本の国際交流の礎となるはずです。

ところで、新しいキムと20年経ったエンジニアの演技を観に行こうと予約状況を調べてみて唖然。1席1万円近くもするチケットが、場所によっては更に値段の張るS席から順に満席となっているのですから、やはり日本はお金持ちと言えるのではないでしょうか。

執筆者プロフィール : 岩本 沙弓(いわもと さゆみ)

金融コンサルタント・経済評論家・大坂経済大学 経営学部 客員教授。1991年より日・加・豪の金融機関にてヴァイス・プレジデントとして外国為替、短期金融市場取引を中心にトレーディング業務に従事。銀行在職中、青山学院大学大学院国際政治経済学科修士課程修了。日本経済新聞社発行のニューズレターに7年間、為替見通しを執筆。国際金融専門誌『ユーロマネー誌』のアンケートで為替予想部門の優秀ディーラーに選出。主な著書に『新・マネー敗戦』(文春新書)、『マネーの動きで見抜く国際情勢』(PHPビジネス新書)、『世界恐慌への序章 最後のバブルがやってくる それでも日本が生き残る理由』(集英社)など。新著『世界のお金は日本を目指す~日本経済が破綻しないこれだけの理由~』(徳間書店)が発売された。